続々漂萍の記 老いて後(補遺)/谷口 謙(北丹)
休診医の休日
3月28日、日曜日、午前5時に目が覚める。これはいつものことだが、前晩午後9時にベッドに入っているから当然だろう。寒い。窓を覗いて驚いた。屋根がうっすらと白い。前夜の気象情報で予想はしていたが、この自分の年齢では仕方がないか。体温まで測ってみたが平熱だった。愚かな。
新聞を丹念に目を通す。決して自慢にはならないが、朝日、毎日、読売の3紙を購読している。連載小説、文芸記事、医学関係も連載ものがあったりする。
仕事は辞めたが産業医の方は続けていて、月に2回程度、30分から1時間位、話をする。新聞の医学記事も助けになる。詩が書きたい。いやせめて散文でもいいから文章を綴りたい。これが今のぼくの願望である。
昼前になって家妻の甥がまた尋ねてきてくれる。「何か仕事がありませんか?」嬉しいことである。先日「愚かな」(第2805号)で書いたが、同じく香資を持って行くのを依頼した。旧口大野村の住む人の死亡時は約80%くらい、香資を持っていく。現在はややすたれてきたが、これは相互扶助作業の伝統である。
葬儀が2軒あった。いずれも挨拶に行くのが遅れている。1軒は3月前。もう一方は10日位たっている。後の家はぼくの所と同じように老人2人の生活だが、ぼくより2歳年長の主人が死亡。面白い冗談を連発する人だった。陋屋で路地の奧。表から見えるよう、がっちり錠がかかっていた。息子さんが公務員だから、もうそっちの方に移っているのかもしれない。更にもう1軒、この方は新築で美しい家になっていた。玄関は施錠されず屋内に入れたが、何回呼んでも応答がない。玄関の隣の部屋ではテレビの大きな音がする。ふと柱に眼をやると、不在の時はこのベルを押して下さい。との紙片が貼ってある。数回押すがノーアンサー。あきらめて、香資の袋を玄関の畳の上に置いて帰る。
帰路、保育園の横の道を通る。車が数台止めてあり、礼服の女性の方ばかり並び写真を撮っている。ああ、保育所の卒園式なんだな。女性群の前方に子どもたちがしゃがんでいる。ああ、少子化か、子どもの数は少ない。長年園医をしていて、年に2回診察に行くが、入園、卒園の日時には何の連絡もない。開業の時、忙しいのを推察していただいての処置だったのか、それでも今になると何だか薄ら寒い思い出が通り過ぎる。
帰宅をして昼食を摂る。電話、仕事の連絡。午後2時20分、在宅か、連絡を待て。午後7時30分、帰宅。終了。
加えて、新築の家の方から、香資、有難うとの連絡。