続々漂萍の記 老いて後(補遺)/谷口 謙(北丹)  PDF

続々漂萍の記 老いて後(補遺)/谷口 謙(北丹)

 詩の同人誌「RAVINE」173号をいただいた。平成22年3月1日、発行。古い詩友のIが「今年が終る」なる作品を発表している。その第1節を写す。

色の美しい桜や柿が
栃や桃 杏 楓の葉はとっくに散り尽くした
山茶花や石蕗の花はもう盛りをこえ
あちこちに植えっぱなした水仙が咲きはじめた
菊は老残の醜を曝していて物の哀れというところ

 Iとは長いつき合いで、彼はぼくより2歳年長。旧国鉄職員で戦争中は鉄道連隊と言っただろうか。占領地で鉄道をつくる仕事をしていた。中尉だったか少尉だったか、いや下士官だったかよく知らない。彼はそのあたりは伏せていて、話してもらった記憶はない。古いことになるが、ぼくが詩を書き始めて余り時間のたっていない昭和26年、詩誌「詩学」の誌上で「交替詩派」同人募集の広告があり、ぼくは処女詩集「風信旗」を送り連絡をして同人となった。当時、国鉄詩人はなかなか多く、詩誌も発行されていたが、その内部に芸術派と労働派(社会派)があったらしい。Iは芸術派の筆頭だと聞いた。これは詩誌「さんたん」の発行から亡くなるまで交流があり、一緒に同人誌をやっていたNから聞いた話である。Iは未だ現役で活躍中なので、記事にするのはいささか気がひけるが、若い頃のIは独立独歩というか、他人の詩調の変化にも容赦しない。国鉄詩人内部でも激しい論戦を挑んだとのこと、この話を聞いたのはやはり同じ国鉄詩人でIの先輩の前記したNである。「交替詩派」廃刊後、続けてできた「再現」誌にはNもIも参加せず、Nは昭和29年に福知山通信信号区長になり、福知山住、頻繁に会う機会が増え、詩誌「さんたん」を創刊、「鷺」「浮標」と続く。実質的な編集はIがしていたようだが、終りに近くIはNの許を去る。当時詩の某団体の会長であったP氏が「浮標」に参加がしたい。ただ作品の内容については一切の加筆、添削は許さないとの条件だったが、Nがそれを受け入れたことに対するIの反発であったらしい。N死亡後、ぼくは浪人をした。何だか同人誌に属するのが嫌になったからである。いつのことだったか。Iから葉書来信があり、「RAVINE」の同人になったとの連絡報告であった。ぼくは平成4年に至り、三井葉子の「楽市」に入会。同人になった。

 一昨年、仕事を辞めて暇になった。が詩が書けなくなった。毎号のIの作品に会うと、嬉しくて心が弾んだ。拙宅の裏庭は広い。妻とその甥が野菜や花を作っている。ぼくも2人に誘われたが、こんな仕事は全く駄目で2週間と続かなかった。だが1日に1回は、雨でない限り見廻っている。今朝も雑草の小さな花を見つけた。引き千切って家妻に名を尋ねた。「菜の花」「たんぽぽ」「犬のふぐり」。

 現在関西の詩壇でNこと、能登秀夫のことを語る人は、全くといっていい位いない。往時はかなり盛名を馳せていたのに。某氏の言によると、社会派風の詩は流行らないとのこと。本名は増田とおっしゃるが、御長男は毎年、賀状を下さる。西宮市住である。

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