続々漂萍の記 老いて後(補遺)/谷口 謙(北丹)  PDF

続々漂萍の記 老いて後(補遺)

谷口 謙(北丹)

 詩集「交替詩派詩集」は同人誌「交替詩派」の仲間が一編ずつ作品を持ちより発行したものである。おそらくぼくの最も早い時期の作品で平成16年、土曜美術社出版の「新日本現代詩文庫 29」の冒頭近くに載せている。読み直してみると、いささか長いので冒頭近くを載せてみる。

港のある街にて
 銭荘の家屋の背後に、白い四角形の庭があった。その庭を見下ろす小高い丘。その一側は海に面していた。薄暮。ぼくは微熱の身体を運び、船窓のような木々の間から、銀行員たちの退社を見守るのだった。その頃、ぼくはある私立病院の玄関番で居候だった。ぼくには金がなく、恋人がなく、最も悪いことに意志がなかった。

 その詩は岸家にお世話になっていた頃の作品でいま読み返すと、何だか1人置かれたような、流されているような思いを歌っている。口大野村では病後の母が1人つくねんと待っていて、ぼくが医師の資格を取るのをただひたすらに見守っていてくれた。詩の内容はかなり意識的で変えられている。岸家の近くに京都銀行の支店があったのは事実である。今でもあるかどうかは知らない。銭荘とは金融機関のことでちょっと気取って使ったものだ。金、恋人、意志がなかったとは、苦しい中での青春の誇りである。作品の末尾に近く、犬に吠えられたりした。と書いているが、人から攻撃されたとの意で、白い四角形の庭はぼくの心象風景である。

 国立舞鶴病院で右肺鎖骨下に病巣を発見されたのは昭和24年夏頃のことだろう。当時の結核治療はスト・マイとパスが発見された頃で、その他では気胸療法が最盛期を迎えつつあった時代だった。長姉千代子も結核で死亡したが、発見されたとき、京都府立医大を受診したが、当時最新式の気胸療法は癒着が強く利用できなかったと聞いている。父母からの話で、当時母のため、いや、いささかでも食事をするため、土曜日の午後からは必ず口大野村に帰るのが常だった。夏の日の某日、土曜日の夕刻、ぼくはふらふらと丹後由良駅で下車をし、汽車の方向とは逆に歩いて行った。小雨が降っていたかどうかは覚えていない。夕日が照っていたかもわからない。とにかく駅から離れて歩いて行った。由良川の堤防に上がり、その時ぼくははっきりとした意識がなかっただろうと思う。川の濁流はすさまじく水量が多く、どくどくといった形に流れていた。ぼくは水を眺めていた。だが、そのとき、重ねて意識なるものはなかったろうと思う。いくばくの時間が過ぎたかわからないが、ぼくは駅への通をとって返した。今の齢になっても、その時の自分の気持ちはわからない。ただ茶いろの水が渦巻いていた。オセンチで恥ずかしいという思いは今でも残っている。人には言えない追憶である。だが、書き残しておきたいと思う。

 少し後になるが、三島由紀夫が小説「金閣寺」の取材に関連して丹後由良駅で下車し、駅前の旅館に1泊した。その家が今でも残っているかどうかは知らない。

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