続々漂萍の記 老いて後(補遺)/谷口 謙(北丹)  PDF

続々漂萍の記 老いて後(補遺)/谷口 謙(北丹)

春 桜狩

 4月19日、晴天。桜も満開と思い、午後2時頃、家を出ました。拙宅前の大野神社、最初の石段の向かって左、桜の大木を見やりました。大阪の詩人、近藤さんが来て感動し、今年も行くと言ってらしたが、仕事の関係で行けない旨の連絡があったところでした。最初に元海軍飛行場、現在の中央加工場の裏手の桜を見に行きました。旧大宮町時代から桜の名所として美しく管理されていました。入口に通り抜け禁止と立札がありましたが、前に1台の車が走り、家族らしい一団が乗っていました。予科練関係の石碑が2基立っていますが、当時の練習生たちも高齢化し、なかなか一同が集まるのは難しいでしょう。さわやかな日照り、前の中央加工場には多くの軽の通勤車が止められており、縮緬産業が駄目になったから、石鹸を造ったりしているとも聞きましたが、現在は何を製造しているのか知りません。桜はしだれ桜も多く、爛漫、おだやかな春風がそよぎます。やはり桜は心象に安らぎを与えるものでしょう。

 次は久しぶりに、三坂峠を越え大内峠を目ざしました。産業医、いや正確にはサブ産業医というのかもしれませんが、株式会社大宮日進に登る坂道の前を通りました。この坂道は前からかなりの桜がありましたが、以前より少し増えているように思いました。溜池があり、横が大型ゴミの捨て場になっていましたが、今日は人影がありません。きちんと整地され、池に水はありません。三重集落に入ります。往時、往診によく行った懐かしい家が並んでいます。いや、無人になった家、建て替えた家屋も多いでしょう。右に曲がり左に折れて、右に元三重小学校跡、その横に駐在所があります。やや小型の駐在所用の車が止めてありました。更に行くと今までなかったトンネルを造っていました。宮津市から与謝野町をへて新たに幹線道路が造られるその一部のようです。大林組の受注と聞き、京丹後市の各社もその下請けをしているそうです。やがて桜と雑木が入りまじる道、右側になんと雪が残っていました。大内峠はなつかしい。大野小学校、1、2年生の遠足はほとんどが大内峠でした。天橋立を見はらす大内峠は、古来多くの文人墨客訪問の地でした。ここは岩滝町(現与謝野町)の管轄で、整備に力を入れています。公園の向かって右、切り開いた山の中、ペンションが4棟立っています。炊事設備があるのか、なければ岩滝から食事を運ばねばなりません。その繁昌ぶりは知りません。新しい公園から、宮津湾、天橋立の景は抜群です。ぼくは柵に身をかけて眺める度胸はありません。数歩離れて春の海を見ます。古い展望の大内峠は少し下って左側にあります。小さな神社か仏閣かわからないのですが、前に賽銭箱があります。ここに来た人の何人が小銭を投げるのでしょうか。今の大内峠は新しい展望台です。当峠で2人の人から声をかけられました。大宮町周枳の古い自転車屋さん。同じく明田の保健婦さん。「先生、お元気そうで」。2人ともそう言って下さいました。しばらくすると5、6人の方が現れ、敷物を広げました。どうやら飲酒の席のようでした。

 大内峠から旧大宮町上常吉の平地峠の桜へと走りました。峠の平地地蔵尊の桜はおくてです。数日遅れだと思います。地蔵は柔和な顔をしていらっしゃる。前に桜の小枝が供えてありました。いまを時めく桜吹雪。葉桜まじりの風に散るのは、淋しくて美しいです。桜の全開期とはその思わせぶりなのかもしれません。

さくら狩美人の腹や減却す
蕪村

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