続々漂萍の記 老いて後(補遺)/谷口 謙(北丹)
春つくし
永かった冬が終わり、4月上旬から中旬、やっと裏庭の雪が消えました。黒い土が現れ、つくしがところどころに芽を出しています。あれは何時頃だったでしょう。まだぼくが大野小学校の下級生の頃だったと思います。神戸から従姉妹の弥生さんが一人で遊びに来ました。年齢はぼくより三つか四つ下でした。おそらく小学校に入学したところだったのでしょう。ぼくの学校では女生徒と特別仲良くするといったことはありませんでした。せいぜい用事のある時に声をかけるぐらいでした。新しく女友達ができたと思い、ぼくは勇んで弥生さんを竹野川の畦に連れて行きました。細い田の道を通り、当時の鉄道宮津線線路を越えると、時代の最高の子どもたちの遊び場である竹野川が流れていました。渡るとゆれる細い木橋、越えて対岸の砂と土の上にしゃがみました。ここは子どもたちの秘境で、沢山のつくしがえていました。ぼくたちはたっぷり収穫をして帰りました。夕方、2人は一緒にお風呂に入りました。弥生さんは平気でした。恥ずかしそうにはしませんでした。
弥生さんは父の弟のひとり娘でした。叔父は歯科医でした。凝り性で仕事はしましたが、お金儲けはあまり上手ではなかったようです。お母さんはしっかり者の産婆でした。おそらく家計はお母さんが握っていたのだと思います。兵庫県の竜野の出身と聞きました。戦争、空襲で焼け出され、一家は相当苦労されたと思います。ぼくの方も父の死亡、経済的な行き詰まり、他人どころではない時代、叔父も死亡して両家の交流はほとんどなくなってしまいました。だが、昨年9月に死亡した下の姉が芦屋にいた頃、弥生さんとの交流は復活し、姉は弥生さんと親しくなりました。そしてぼくが開業医生活に入った頃、姉はぼくが弥生さんと結婚するよう、母にすすめました。だが母は一言ではねつけました。父と叔父は母が違っていて、父は前妻の子でした。母は弥生さん一家によい感情を持っていないようでした。
長い年月が流れました。ほとんど賀状だけの交流でした。だが下の姉はずっと交際していたようです。
話は変わります。隣の兵庫県で「兵庫ふれあいの祭典 詩のフェスタひょうご」なる組織があり、毎年1回詩作品の募集があって、11月に発表会が開催されていました。選者の1人が安水稔和で古い詩友だったから、平成14年から毎年応募を続けていました。いつも佳作どまりでしたが、18年に入賞し盾と賞状をもらうことになりました。この記事がおそらく神戸新聞に出たのでしょう。11月17日の式に出席したら、なんと会場で弥生さんが待っていてくれました。そしてお祝をくださいました。当然ですが、ぼくも弥生さんもすっかり白髪でした。弥生さんから長い話を聞きました。夫はぼくと同じ旧制松江高校出身で米子生まれ、戦後の混乱で大学には行かず、ずっと小学校の教員をしていたが死亡、子どももないので思い切って自宅を売却して老人ホームに入りました。むさくるしい所だが帰りに寄って下さいとの言葉でしたが、大きな心残りはあるものの、表彰式が終わったらぼくは早々に帰宅せねばなりません。翌日の仕事もあります。だが、御主人の松高出身とは全く驚きました。ぼくのいた当時の理科甲三組には米子中学出身が5人いたと思います。もっとも親しかった男は阪大を出て、大丸百貨店の神戸支店長をしていました。西宮住まいで今も健在のようです。こんならちもない話もしました。下の姉との交流のことのお礼も言いました。で、なんだか胸のなかがうつろになるような思いでした。弥生さん、あなたが忘れたと言っていた竹野川のつくしはもうありません。そのかわり、ぼくの家の裏庭では、すっくり大きくなったつくしが直立しています。