続々漂萍の記 老いて後(補遺)
谷口 謙(北丹)
雪
私が郷里に帰り、亡父の跡を継ぎ医院を開業したのは、昭和25年も押し迫った12月25日の頃でした。付近の病院に1年勤めただけの、今から思うとずいぶん思い切ったことをしたものです。が、やはり若さの特権だったのでしょう。
翌26年初頭の頃だったと思います。村役場から電話連絡があり、当時の中郡と与謝郡との境界である平治(へいじ)峠を越えた中郡上常吉村の地域で、牛を曳いた青年が血を吐いて雪中に倒れている。消防車を出して助けに行くから同行せよとのことでした。まだ若く、張り切っていたぼくは父譲りの毛糸の帽子をかぶり、これもまた父の残したオーバーを着て消防車に同乗しました。車が走り出すと、一緒に乗っていた村の役場職員が消防車付きの鉦(かね)をカンカン鳴らしました。消防団員は、「止めてくれ」「止めてくれ。村の人が火事かと思ってびっくりする」と声を上げました。車は常吉小学校への坂道の前で止まりました。峠の頂上近く赤いランプをぐるぐる振っているのが見つかりました。そこには3人の男が患者以外にいました。喀血した青年、当時はもちろん携帯電話なんてありません。おそらく運よく通り過ぎた人があったのでしょう。雪中、牛を引く者、病人を担架に乗せる者、学校の下まで来て患者を乗せ、あとは4人が消防車に乗りました。病人の自宅はぼくの住む村の隣町でした。幸い患者の自宅前まで車が入りました。運んだ我々は興奮して家の戸をどんどん強く叩きました。
「こんばんは、お宅の息子さんが倒れているのを発見して連れてきました」
前もって連絡はしていませんでした。当時は特別の家しか電話はありませんでした。入った所の土間の上に風呂桶が置いてあり、中から若い女性が驚いて飛び出しました。青年は同町の病院に入院し、しばらくして亡くなったと風の便りに聞きました。
昭和38年は全国的に、いや裏日本一帯が大雪でした。38歳になった私はずっと田舎医者の生活を送っていました。町村合併が行われ大宮町と称し、私の居住地が町の中心になりました。冬の寒い雪の頃、私は新しく町内になった森本なる集落に往診に行きました。拙院から約5キロ、そこに行くには三坂(みさか)峠なるかなり急峻な坂道を登らなければなりません。細い雪道を往診鞄を抱えて歩きました。患者さんは重症で、朝夕行かねばなりません。朝宅診を始める前、早起きをして行きました。この時はまだいいのです。午後から夕方の往診は困りました。やはり身体の疲れが残っているのです。小柄な女子中学生がさっさと歩きます。中にはおしゃまな生徒もいて、「先生、ご苦労さんです」などと声をかけてくれる生徒もいました。
「先生、患者さんが待っていらっしゃるのでしょう。どうか先に行って下さい」
と言って道を譲ってくれる老人もありました。この時の雪は三八(さんぱち)豪雪といい、現在まで語り続けられています。雪中往診には老母の思いつきで外套のポケットにアンパンを一つ二つ入れてくれました。これには助かりました。腹が減っては戦はできぬ、卑猥な言葉ですがやはり真実だと思います。
平成24年、今年も大雪でした。私は86歳になり、老妻と2人で同じ雪国の丹後の地で暮らしています。もう仕事はできません。満80歳で医業は止めました。丹後6町は合併し、京丹後市になりました。拙宅の前の道路は往時は国道でしたが、今は市道になっています。雪道は市が午前5時頃、除雪車が通り雪をすかしてくれます。でも家の入口から道路までは当方で雪を除去しなければなりません。頑張ってスコップを使いました。ふらついたり、肩が凝ったりして困りましたが、何とか除雪をしました。前の家の息子さんが助けてくれて嬉しかったです。
昭和52年1月21日、母の葬式の夜、裏の離れの屋根が雪のため崩れて大騒ぎをしました。これに懲りて今年は早々に雪下ろしの人夫さんを頼みました。午前9時から午後4時半まで、3人で2日を要し日当1人8千円でした。今年の雪は二四(にいよん)豪雪として人の心に残るかもしれません。
なお、往診に苦労をした昭和38年の森本地区には新しい道ができ、森本工業団地が作られました。三坂峠も改修されましたが、利用者は減少しただろうと思います。