続々漂萍の記 老いて後(補遺)/谷口 謙(北丹)  PDF

続々漂萍の記 老いて後(補遺)/谷口 謙(北丹)

深くお詫びしながら

 何か楽しいことがなかったかな。ふるさとの土地に暮らし、とうとう85年に近い時を過ごしてしまった。書き残したことはないか。おまえは微笑んでペンを置くことができるか。学校を昭和23年に卒業し、ぼくは再び大学に帰ることをしなかった。他の同級生たちがどんな仕事をして、いかに医学界に名声を馳せたかもほとんど全く知らない。ただ医学部医科学教授の子息で、自らも京大内科教授になり、医学部部長、附属病院病院長を歴任した内野治人は重鎮として先ず第一に名前を挙げなければならない人と思う。その彼が近頃の新聞記事で膵臓がんにて死亡したと知った。没年は83歳とあったから、四修で二高に入り、早生まれだったんだろう。その当時お父さんは東北大の教授だったと想像する。これは別の話だが、前に書いた星野麥丘人(俳誌「鶴」主宰)も早生まれの大正14年生である。

 内野は学生時代から実に篤実な勉強家だったと思う。その時代はあまり話をした思い出はない。解剖や生理の実験のとき、必要上から会話をしていたと思うが、ポリクリ外来で一緒になった追憶はない。前に書いた六高出身の竹村広彦も数年前、脳梗塞か何かで急逝したが秀才だった。今になり考えてみると、ぼくの周囲にいた人たちは、いずれも皆よく勉強ができた。無駄な卑下は止めろ、嫌味になるぞ、との言が耳に響く。だが本当のことなのである。

 ぼくの長男は現役で某国立地方大学医学部を卒業し、京都大学皮膚科に入局したいと言い、当時助教授だった同級生の渡辺に頼み込んだ。渡辺の快諾を得て入れていただき、何年かたち薬理学研究室で論文を書いた。その審査で口頭質問をするのが内野教授だった。ぼくは厚顔にも人を経て、教授によろしく頼むと伝言をした。あとで息子に聞いたら徹底的にしぼられた。おまえがいらぬことを言うからだ。それでも最後によくやってるなあ、と誉めてくれた、と言った。

 内野の所へは挨拶に行け、と言われて出京し家を訪ねた。お母さんがおいでて、内野は不在だった。

 一方渡辺だが、教室に入れていただいた時、私宅の方に御礼に行った。ここでも渡辺は不在で、奥様にお会いした。その時は未だ知らなかったのだが、夫人は舞鶴のご出身で、なんと谷口の家とは古い古い親戚で、父海山と夫人の父君とは交流があったのである。舞鶴のA氏は満大の小児科教授だったが、戦後満洲から引き揚げてこられたのである。戦後、亡父とA医師と近づきがあったかどうか知らない。混乱の時代だったから、おそらく話し合いはなかっただろう。A医師御家族もさんざんご苦労なされただろうと思う。渡辺は滋賀大の皮膚科初代の教授になり、意外に早く死亡した。ぼくは彼に奥さんが古い親戚であるとは伝えなかった。機会がなかったのだ。もちろん彼は奥さんを介して知っていただろう。

 世の中では不思議なこともあるもので、ぼくはA医師と、宮津市で蕪村の寺として有名な一心山見性寺で一度だけお会いしたのである。昭和50〜60年頃だと想像する。そのときA医師はぼくに親近感をお見せになり、蕪村についていろいろ聞きただされた。お会いしたことはないが、ぼくと渡辺の子どもさん達とは、もう薄いものだが血のつながりがあるのである。

(2人の教授に対し、ご高名な方だのに敬称を略させていただいた。深くお詫びする)。

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