続々漂萍の記 老いて後(補遺)/谷口 謙(北丹)(1)
父の文字
古い雑誌を整理していたら、昭和17年10月1日発行の「学生」の1冊を見つけた。表紙の右端に、保存、78頁と父の字が記してある。ああ、懐かしい。父は読書家だった。毎月「中央公論」「改造」「文芸春秋」等々を買い求め、夜になると書斎にこもり読み耽っていた。そしてそれと感ずるものがあれば、必ず表紙に、保存と記し、その部のページを書いていた。ぼくの文章が一段雑誌に掲載され活字化されたのが、たまらなく嬉しかったのだろう。前に何回か書いたが、ぼくは父の末子で、溺愛の対象だった。
「学生」はもともと研究社から発行された受験雑誌だったから、受験の体験記事を募集しており、それにぼくがたまたま松江高校受験記を投稿したのである。「無刺激な田舎中学から」と題し、松江高校、春夜夢巧と校別とペンネームが記してある。内容はサブタイトル「田舎中学の悲しさ」「各科の準備法」「どの位できたか」の3部に分けられ、母校宮津中学の刺激の少なさ、受験参考書名の列記、数学は岩切、英語は小野圭、村井メドレー、原仙作、国語は保坂、浦川、参考として徒然草、方丈記、を読み、物理は昭和物理問題集。直前に総仕上げを使った。国史にかの有名な大川周明の二千六百年史、他に藤川氏の同名題の本。化学は総仕上げ本と教科書、等々。ちなみに大川本は当時のベストセラーズで父が買っていた。「どの位できたか」は己の予想点数を記した。
高校に入って最初の夏休みが終わり、自習寮に帰ってしばらくしての研究社からの通知。送本で、ぼくは非常に嬉しかった。ただぼくの知らぬ間に、同室の滝野も読んだらしく、ひどく辛口の批評をした。
滝野の奴、ひがんでいるな。
ぼくはひそかに思い黙殺した。他にこの文章を誰が読んだだろう。ほとんどないだろうと思っていたが、いや、宮津中学の同級で5年生に進級していた者は目を通したかもしれない。松江高校理科へ四修で入ったのは、ぼく1人だったから。無刺激な田舎中学から、というタイトルは編集者がつけたもので、現実は宮津中学でもかなり厳しい競争があったのだ。
古い雑誌を読むのは懐かしく、かつ面白かった。巻頭言は、大政翼賛会文化部長、高橋健二郎。「誇りをもって慎ましく」で編集後記は「回覧板」と銘打って「大東亜戦争を勝ち抜くためには、単に軍備を充実するだけでなく、国内のいろいろな制度にも改変を加え、国家の総力をあげて必勝不敗の体制を整えなければならぬことは申すまでもありません」と元気がいい。当時嫌となるほど聞かされた言論である。この雑誌の価格は40銭である。賞金というが、原稿料なるものは確かに貰ったが、金額は覚えていない。
雑誌は今にも崩れそうである。70年にも近い古い古い昔の話。愛情のこもった父の「保存」の文字。いま某日。懐かしさをこめ父のことを思っている。
(引用の文章の漢字、仮名遣いは現代風にした)