続々 漂萍の記 老いて後 谷口 謙(北丹)―<6>自転車

続々 漂萍の記 老いて後 谷口 謙(北丹)―<6>自転車

 昭和17年3月、宮津中学から松江高校を受験した。ぼくは父の勧めもあり、医者志望なので理科乙類を志望したが、理科甲類にまわされたのだ。ぼくの同類が、やはり開業医の息子でもう1人いた。更に理乙に合格したのに、京都府立医大を選んだ方が1人あって、理科乙類に補欠で入学した人もあった。あれこれ考えると、ぼくはビリから1番か2番で合格したわけだ。4年修了で合格したのは、ぼくと前記したタツノこと滝野だった。滝野は文科甲類である。

 当時、1年生は全寮制、1室2人、ぼくはどんな人と合部屋になるかと、びくびくしていたが、何とタツノと一緒になった。次第に戦争の影響が出てきたのだろう。1カ月16円の食費の内容は、次第に貧しくなっていった。ぼくが飢えの体験をしたのは初めてだった。タツノの父親は大工だった。無口、それに比し母親は肥っていて饒舌だった。恥ずかしいが白状すると、次第にぼくはタツノとそりが合わなくなった。要因は食べもののことだ。ぼくは父母から、特に父から溺愛された。珍しい菓子など入手できたら、必ず小包にして送ってくれる。寮では入り口に木製の台があり、その上に郵便物が並べてあった。小包は黒板に名前がのっている。次第にぼくの名宛ての小包が多くなり、ぼくの名前は寮生から注目され始めた。

 最初のうちは、必ず菓子はきちんと2つに分け、1つ分をタツノに渡した。だがさもしいが、タツノに渡す分が減少した。押し入れの中に隠すとしても、押し入れは上下2段で1段が個人の持ち物である。タツノは文甲、ぼくは理甲、授業が一緒なのはめったになかった。ぼくの休講の時は部屋で充分食べた。タツノに渡す分は減ってきた。だがそれにも限度がある。当時の高校生には、未だ自由が残っていた。いろいろな理由で寮にいるのが嫌になれば、長期外泊ができた。ぼくは寮からのがれ、父の知人宅に下宿をした。タツノから離れた。下宿から学校までは遠かった。父は医師会の抽選に当たったと称し、新品の自転車を送ってくれた。何でも配給の時代だったが、地区医師会に自転車の配給があったとは聞き始めだった。ぼくの自転車は注目を浴びた。物理の長谷川という教授に廊下で会ったとき、「おい谷口、いい自転車に乗っとるな、さぞ闇値が高かっただろうなあ」。ぼくは黙って頭を下げた。

 松江高校3年生の後半は、通年動員で通学はしていない。動員がやっと終わり、大学に行くのを許された。全く久しぶりにタツノはぼくの下宿に来てくれた。

「おい谷口、俺は東大の法學部に行くよ。今まで田舎廻りばかりだったが、今度は東京だ」

 タツノは意気高らかだったが、その後のことはまた書こう。

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