続々 漂萍の記 老いて後 谷口 謙(北丹)―<5>旗護生

続々 漂萍の記 老いて後 谷口 謙(北丹)―<5>旗護生

 宮津中学の時、成績表(通知簿)は10点満点で各学科の得点を記し、それで平均点を決め、成績の順番が記してあった。ただし、古い実物は持っていないので、その正確さに自信はない。ぼくは体操、作業、武道、教練などが苦手で、真面目に皆出席しておれば6点だった。6点が最終の合格点なのだ。
ぼくは鉄棒の逆上(ルビ/さかあがり)、平面の逆立ちも不能だった。作業といえば雑草を鍬で整地するか、もっこを担いで土を運ぶような仕事だった。ぼくが鍬を使っていたら、なぜか3歳位年長で同級生だった岩瀬という男が見ていて、「お坊ちゃんの所作で見とれん」と放言して、ぼくの鍬を取ってしまった。ぼくは体育系が全く駄目で、いつも6点が続いていた。だがこれだけは言っておく。ぼくは作業の先生や配属将校の人たちから怒鳴られたことはあるが、殴られたことはない。ぼくは柔順でおとなしかったから、殴る気持ちを消失させたのかもしれない。

 実はそのぼくが4年生になり、旗護生の一人に選ばれたのである。旗護生とは江戸時代、宮津藩主本荘家の直系、本荘宗正氏が旗主、5年生で腰にベルトを巻き校旗を持つ、それに4年生が5人で旗手の左右、後列に3人が三八式歩兵銃を持った完全武装で校旗を守るのである。学校の行事や宮津駅に出征兵士を送る時など先頭に立った。今となっては、同級生の名前も覚えていない。ただぼくの位置は、後列の真ん中だった。父の日記を覗いたら、「謙、旗護生になる」と記してあった。父も嬉しかったのだろう。

 選ばれたあと放課後、何回か練習が行われた。職員のなか、井隼<ルビ/いはや>という橋北出身の下士官―軍曹だったか曹長だったか知らない―がいて、配属将校の助手をしていた。兵器の管理に必要な人だったかもしれない。ちなみに彼は、汽船は使わず自転車で通勤をした。午後の練習の時、彼は必ず現れた。本荘さんを中心にして、ぼくらが行進するのを、後(ルビ/うしろ)から横から前から、身を入れて観察した。練習の結果、ぼくらは本番に出されたのである。

 この文章を書いていて、ふと思いついた。本荘さんの旗主は、その血統からいって本命だろう。だが旗護生の選定は? 結論からいって、なぜぼくのような運動神経の鈍い者が選ばれたかわからない。旗護生の人選は、井隼下士官がまかされたのではなかろうか。また、このグループの演出も、彼が考えたことかもしれない。運動が下手でどんくさいぼくを、いつも井隼下士官が温かい視線で見守っていてくれた。ぼくを庇うこともあった。

 本荘さんは、なぜか宮津藩の城代家老の黒川家で育てられ、宮津中学にもそこから通っていた。黒川氏の娘さんが、死んだ姉と宮津高女の同級生で友達だったので、本荘さんの話はよく聞いた。彼は宮津中学を卒業後、陸軍士官学校を受験して失敗し、満洲軍官学校に進学した。その後のことは何も知らないが、手許の2005年版、宮津高校同窓会名簿をめくってみたら47ページ、第36期(昭和17年卒業)の欄に名前があり、名古屋にお住まいだった。電話番号も書いてあったが。

 蛇足だが、黒川家のことを書こう。黒川さんは舞鶴の海運業者、飯野氏のところに嫁ぎ、ぼくがインターン生の時、お世話になった岸先生の宅で夜間小用に立った時、先生が往診から帰ってみえた。

「おい謙君、飯野さんの所にお産に行っていたよ」

 先生は機嫌がよかった。無事出産だったんだろう。

 もう一つ、余分のことを書こう。昭和19年の年末近く、寺町通りを歩いていたら岩瀬に会った。向こうから気付いていたようだったが、ぼくが近づこうとしたら、ふいと横道にそれた。宮津中学からどこか、仏教関係の学校に行っていると聞いたが。

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