続々 漂萍の記 老いて後 谷口 謙(北丹)―<1>従兄弟

続々 漂萍の記 老いて後 谷口 謙(北丹)―<1>

従兄弟

 『京都府保険医新聞』に「漂萍の記 小さな自伝」と題し、昭和60年4月1日〜平成元年6月5日の間、正・続の2回に分けて掲載していただいた。三たび発表の機会を与えられ嬉しいが、題名のごとく、老いてなお書けるだろうか、不安の念も強い。

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 夢っていったい何だろう? 度々題材にした、長姉千代子、ぼくと同じ丑年(今年ぼくは年男だった)で、結核で早く死亡した彼女の夢はいつからかみない。夜は早くベッドに入り、午前4時トイレに行く。あと6時までうとうとし、必ず夢をみる。今朝はちょうど姉と同年代、いつも夏休みにやって来て、わいわい騒ぐ英世<ルビ/ひでよ>さんだった。英世さんの父は、現京丹後市宇川の漁師の子だった。志をたてて出京し、医師検定試験に合格し、神戸で開業をした。妻が父の妹だ。英世とは、おそらく父母が野口英世にあやかったものだろう。英世さんは当時N医大の学生だった。小学6年生の時、泳げないと聞き、ぼくを橋立に連れて行った。「中学に入ったら水泳がある。ぼくが仕込んでやる」。ぼくは生来、全く運動が駄目だった。もちろん泳げなかった。海の浅い所で両手を持ち、だんだん深みに連れていく。ぼくの足がつかなくなった時、ぱっと両手をはなす。ぼくは驚き、一心に足をばたばたさせる。これが水泳を教えるイロハなんだろう。それでもやっと夏が終わる頃、何とか10メートル位は泳げるようになった。

 翌年の夏、ぼくは宮津中学1年生。7月に島崎の海岸で水泳訓練があった。5年生と去年5キロの遠泳にパスした者が黒の帽子で水泳着。ぼくたち1年生は白の褌、赤坊だった。同級生はそれぞれ、1キロ、2・5キロ、5キロと遠泳に合格し、帽子に白い線を入れていった。赤坊は沈殿<ルビ/ちんでん>組と称され、5年生にしごかれた。ただ、なぐりはしなかった。赤坊のまま水泳訓練の終わったのは4、5人だったと思う。多分それは病気の人だったんだ。1年生の終わり頃、姉は何かの用事で英世さんと会い、彼は会うなり「謙さんの水泳はどうだった?」と聞いたらしい。「一番あかなんだらしいで」「やっぱりか、謙さんは気が弱いからなあ」。姉から伝えられた。

 英世さんは、県の衛生部長まで出世をした。父の死んだ時も、母のみまかった際も、数日、日をおいて悔やみに来て下さった。母の時は心筋梗塞の病後だったらしい。付き添いの人を連れていた。

宮津市・天橋立のイメージ(編集部)


 

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