続々 漂萍の記 老いて後 補遺/谷口 謙(北丹)<45>  PDF

続々 漂萍の記 老いて後 補遺/谷口 謙(北丹)<45>

母の言葉

 父のことを続けて書いた。母のことも何回めになるか書いておこう。母は明治21年3月8日生まれ、父より7歳年少である。

 父の祖父、舞鶴から来て口大野村に定住した谷口松洲の記録に米15俵の記載があり、当時の足軽の給与が18俵だったそうだから、松洲の給与は足軽以下。峰山藩ではどんな仕事をしていただろうか。士族と言えば聞こえがいいが、果たしてその一員に入っていただろうか。谷口家に係わる口碑のみで、ぼく自身確として証拠を見たことはない。ただし松洲伝とした遺物は多少残っている。父も大切にしていたからぼくもそのまま一品も失うことなく保存を続けている。ただしぼくが開業して間なく、口大野村住の某老爺が受診し、谷口家の初代医者さんは、舞鶴でとてつもない誤診をして口大野村に流れて来なったんだそうですなあ、と言われたことが一回だけある。二度とはなかった。ことの真偽は知るよしもない。ただ時の流れで松洲は蘭学などにも興味を持っていたと聞いている。大宮町善王寺に高木さんとおっしゃる方がいらっして、先祖は峰山藩家老、当時は大宮町役場の課長だった。患者さんでもあり、心やすくしていただいていた。よく、峰山藩藩主の墓参りに行こうと誘われたが、ぼくは肯んじなかった。やはり心中釈然としない思いがあったのだろう。父が口大野村日蓮宗常徳寺住職と仲の悪かったことは前に書いた。これは父の独善であっただろうし、お互いの誤解もありあわせただろう。ぼくが特別に口出しすることはなかった。

 母が死亡したのは昭和53年1月21日、大雪の日だった。除雪に大変だったことを覚えている。口幅ったいが、ぼくも医者盛りの年頃だったので、それなりの葬儀は行った。寺の事情に詳しい人から、谷口家始まって以来の、まともな戒名だとはやされた。

 母は父の女道楽にさんざん悩まされたが、母の最大の人生の悲しみは姉千代子の死だったろうと思う。昭和15年6月14日、海山の友人だった太田典礼氏の病院で2人の女児を残し、肺結核で死亡した。ぼくは宮津中学3年生だった。享年26歳。病院は天橋立駅前にあったが、母は約1年間、ほとんど毎日看病に行った。父と千代子の婿は医者同士で話もよく合ったが、母は絶対に彼を嫌悪した。婿の方も「親父はいい者だが、その嫁は嫌いだ」と広言した。母は全く世辞の言えない人柄で、またプライドが高かった。ぼくが医学部に入ってから、在京中の安田千代子さん方に下宿して大変お世話になったことは前に記した。某日安田夫人がぼくにおっしゃった。

 「昨晩、千代さんの夢を見てねえ」

 千代さんとは上原千代子、元の谷口千代子のことである。

 「千代さんは夢で言った」

 「千いさん、死んだらあかんで、絶対に死んだらあかんで」

 ぼくは帰宅した時、この話をした。眦を決して、とはこの時の母の形相を言うのだろうか。

 「千代子が、千代子が」

 母はほとんど怒鳴るような形相で行った。

 「夢にでも千代子がそんなことを言うわけがない。病院から汽車で帰ろうとすると、今日は少しおかしいから、帰らないで傍に居ってくれ、と言って手を離さなかった。お母ちゃん、有難う、と言って息が絶えた。あの千代子が千代さんの夢枕に立って、そんなことを言うわけがない」

 母はぼく一人の前で、さめざめと泣いた。ぼくは言葉がなかった。安田千代子さんにもこの話はしなかった。

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