続々 漂萍の記 老いて後 補遺/谷口 謙(北丹)<44>
父のことが絶え間なくと言っていい程、胸を過る毎日である。あれは松江高校から大学の医学部に入った頃のことだろうか。いやもう少し前のことだろう。戦争の影響で薬品も何もなく、じたばた狭い診察室内を走り廻っていた頃だから、やはり高校時代のことだったろう。連日受診に通っていた老人に、父は頗る無愛想だった。老人はぼくに向かいほとんど哀願するような口調で言った。
「海山先生は小学生のとき、わしの教え子だった。わしは一度も先生を叱った覚えがないのに、わしに向かってよう叱った。よう叱ったと繰り返し言いなさる。ほんまにほんまに、わしは先生を叱った覚えは一度もない」
診察の合間に、ぼくは老人が可哀相になり、父にとりなしを言った。
「お父ちゃん、もう少し丁寧に言葉をかけてやってくださいな。あんなに哀願しているんだから」
父はけらけら笑い
「何を言っとる。あの恩師なる男はいつもわしの頭をこづき、海さん、おまえみたいなどむならずは知らない、と言いつつ頭をなぐったんだ」
幼年期の思い出なんだろう、父は笑いながらつけ加えた。
「奴さんの拳骨は痛かった」
いささか老人が可哀想になったが、いつからか診察室に姿を見なくなった。
昭和22年9月6日、父は死亡した。ぼくは早々に開業医生活に入り、昭和26年10月11日、峰山町新治の小北節子と結婚をした。彼女の母が宇川村袖志の出身で、母方の父は伊根村日出から養子に来た人である。彼は海山と同年代の人だった。ぼくの母が彼と初めて会ったとき「海さんは女子が好きだった」と語り、母は赤面してあとあとまでこのことを話にした。何のつてか、父は出京して入澤達吉博士の玄関番になる前に、この伊根村かその周りのあたりで小学校の代用教員をしていた。父はある女性の許へ夜な夜な通いついに妊娠させた。女は有名な美貌だったらしいが、結婚して月足らずの女児を産み、その女児は宮津町に嫁ぎ、息子が岩滝村で写真屋をしている由、つまりぼくの甥である。この話を古い、漂萍の記に書いたら、保険医協会理事長をしていらっしゃった山田先生からお手紙をいただき、あなたは甥にあたるその写真屋に会ったかと問われた。いや、ぼくはそんな真贋の定かでない人に会いたくないんです。怒られたら馬鹿らしいですし、と答えたら、山田先生はお笑いになり、ぼくだったら会いに行くな、たとえ嫌な思いをしても会って話をしてみるよとおっしゃった。臭い物には蓋をするぼくは卑怯な性格だが、散々自己弁護をすれば、その時まだ生きていた母の感情にさわることが万一ありはしなかったかと恐れたからである。
ぼくは父が40歳を過ぎてからの子供だが、ぼく自身父の女遊びのことは全く知らない。姉二人がよく語った父の遊興の事実を全く知らないのである。それなりにぼくは幸運であったと思っている。ただ最後に一言だけ付記しておく。ぼくは父の臨終の一切を詳細に見守ったが、これは全く初めての経験で、死とは恐ろしいものだと痛感した。父の生涯は幸福だっただろうか。それについてぼくは何の意見も持てないことを恥ずかしく思う。