続 記者の視点(45)  PDF

続 記者の視点(45)

読売新聞大阪本社編集委員 原 昌平

言論・表現の自由と節度

 報道・言論・表現をめぐる問題や事件が次から次へと起きてくる。
 ヘイトスピーチ、NHK会長らの発言、朝日新聞の記事連続取り消し、元朝日記者への脅迫、韓国での産経支局長起訴、北朝鮮指導者の暗殺映画、パリの新聞社襲撃、ムハンマド風刺画の可否……。
 挙げていくと憎悪、圧迫感、血なまぐささが漂ってきて気がめいりそうになるが、問題をどう考えるべきか、手がかりを整理してみたい。
 表現の自由は、人権の中でも最も重要なものの一つだ。言論の自由、出版の自由、集会の自由、結社の自由、知る権利、報道の自由、取材の自由などを含んでいる。
 なぜ表現の自由が大切なのか。一つは個人の自己実現、もう一つは民主主義社会の維持発展に欠かせないためだと憲法学者は説明している。とはいえ、内心の自由と違って、無制限な自由ではありえない。表現によって他者の人権を侵害することがあるからだ。どういう場合にどこまで許容されるのか、ギリギリの判断とせめぎあいになる。
 従来、表現の自由は国家権力との関係で論じられることが多かったが、近年は市民と市民、メディアと市民がぶつかる局面が増えた。誰でもネットで発信できるようになって、過剰に攻撃的な言動が幅をきかせている。外国や宗教が絡むこともある。
 問題を考える補助線の一つは「力関係」である。政治・行政・司法・軍隊といった権力への批判や風刺は民主主義のために十分に保障する必要がある。それ以外も強い者に対する表現は広く許容され、弱い者に対する表現は節度を保つべきである。
 一般的にはマスメディア・大企業は力を持つ。市民も多数になると力を持つ。少数派・被差別者・障害者・生活困窮者などは弱い。力関係を踏まえないで単純に表現の自由を語るのは危険である。
 二つめは「バランス」。表現の必然性・公益性と、侵害される権利の程度のかねあいである。必然性も公益性もなく、他者を深く傷つける表現をするのは正当ではない。
 ヘイトスピーチ、ヘイト雑誌、指導者の暗殺映画、宗教上の崇拝対象への侮辱などを擁護する気にはなれない。言論・表現の自由は、自制と責任を伴わねばならない。
 三つめは「やり方」である。表現する際も抗議する際も暴力・脅迫・差別・侮蔑は許されない。「寄ってたかってたたく」のもまっとうではない。それらは他者の存在や言論の自由を圧迫する。被害者意識を強調しつつ、単に相手をおとしめて愉悦にひたるのは論外である。
 どうやって表現を適切にコントロールするかは難題だ。法規制が必要な場合もあるが、政府や警察に権限を持たせると自由の抑圧に乱用されるおそれがある。訴訟は手間と費用がかかる。さしあたりマスメディアに関して、政府から独立した紛争仲介・勧告機関が求められる。
 権力に対して、ひるんではならないが、それ以外は他者の尊重、多様性の尊重、寛容、節度が必要だ。でないとかえって言論・表現の自由の基盤を掘り崩すことになる。

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