私のすすめる ナガラ文学鑑賞 篆刻とは如何なるものか
宇田 憲司(宇治久世)
『今しかおへん—篆刻の家「鮟鱇屈」』
川浪春香著 編集工房ノア
定価 2160円(税込)
本書は、著者公刊の小説集の第4冊目で、昭和18年68歳で他界した印判業者で篆刻家水野栄次郎の、弘技堂を立ち上げ、眼鏡(第11章)を要する齢を経て、鮟鱇屈(第14章)を引継ぎ、髄緑艸堂、勝六齋の基礎ともなった生涯を実孫恵氏からの思い出語りに描いている。
主人公は、家禄奉還により没落した元加賀藩士の末裔で、明治19年、12歳にして家宝の短刀二代目清光と過去帳を携え入洛する。そのころ京の都では、ジャムパン、あんパン(第1章)なども売られ始め、珍しげな文物にも溢れていたとか。まず、口入れ屋の紹介で台湾に渡るもデング熱に罹り頭髪を失って帰洛し、今度は福田印判所にて徒弟奉公(第2章)を始める。大師流の祐筆、信夫顕祖の手になる謡本の内45番を臨書したなど既に運筆の基礎はある。版木彫りや木口、水晶、寿山石の印判を彫るには、仕事を習い、印稿を続飯の糊で貼るなり布字するなり、筆に換えては版木刀、印刀、鏨、鉄筆など要し、切れ味よく刀を研ぎ肘をあげ水平に仕舞うなど、身体で覚えては一生の宝となろうなど天職への予感を覚えたとある。その修養は、丁稚働き雌伏の7年(第3章)にあり、店主武蔵の妻フサからニィッと笑えと人付き合いの要点を諭され、店主には金勘定をごまかさぬ商人の信用をも試される。押印には、猪牙(第4章)で紙を磨き、印面を叩いて印泥を載せ、印矩を当ててすなど、学ぶべきことは多い。
栄次郎20歳の春、第4回内国勧業博覧会への出品を許され、2等賞褒状を得た。会場で偶々見た、一等銀杯を得た御用印判司は鮟鱇屈の店主河津勇蔵の一人娘を見染め、後日、婿養子に望まれるが、戸惑っている内に病に空しくなって片恋(第5章)に終わったとか。このあと、新妻(第6章)を迎え、長男八百喜の誕生(第7章)から水野弘技堂(第8章)を開店して独立し、更に直次郎、三郎、末吉、ぬい、道夫、と五男一女に恵まれ、桑田変じて海となる(第9章)世の慌しさをしり目に、時流に染まらず、世におもねず、己に恥じない仕事をして身上を全うするとある。
その後は、長男を入門させた京師随一との書家山本竟山(第10章)との交流や、「休師憫窮図」の扇絵に捺す山本鉄斎の号印「百錬」を模刻して彫り、扇面の本紙を贈られる起縁(第12章)となり今も宝塚美術館で鑑賞できるとか、また、実は北大路魯山人の育ての兄弟子であったなど(第13章)、歴史の交錯には興味が尽きない。
物語の詳細はさておき、ならば、篆刻とは如何なるものか、カバーや表紙などには、実孫恵氏の朱文8、白文8がカラーで付され、方寸の世界に思いを馳せながら絵画的にも鑑賞できる。本紙内にも「歩」はじめ朱文9、白文2と、合計27顆の印文が何を示唆するのかと興味深い。一読をお勧めする。