特集(2)講演録 731部隊の戦後と医の倫理 青木冨喜子氏(作家・ジャーナリスト)  PDF

特集(2)講演録 731部隊の戦後と医の倫理 青木冨喜子氏(作家・ジャーナリスト)

 医の倫理—過去・現在・未来—企画実行員会は4月12日、「日本医学会総会2015関西」に対するアピール企画として「歴史を踏まえた日本の医の倫理の課題」を開催。協会の垣田さち子理事長が代表を、吉中丈志理事、飯田哲夫理事が副代表を務めた。アピール企画の午前の部で行った特別講演の概要を紹介する。講師は、ジャーナリストで作家の青木冨喜子氏。

パウエル氏との出会い

 私が『731 石井四郎と細菌戦部隊の闇を暴く』(新潮社刊)という本を出してから、10年になります。私が取材を始めたのは2000年です。その年にサンフランシスコでジョン・パウエルさんというアメリカ人に会いに行きました。

 彼は、上海で「チャイナ・ウィークリー」という英語の週刊誌を主管していたジャーナリストです。パウエルさんは大変な努力家で、情報公開法を駆使し、20年かけて731部隊と米軍が取引した文書を発掘しました。2000年に私がサンフランシスコに伺っていろいろ話を聞かせてもらったところ、「何か新しい発見があるのかね?」と聞かれたんですね。「何か一つでも新しいものがなければ、1冊書くのは難しいよ」と。本当にそうなんです。

 それを探すため、もう一度、石井四郎の足跡をたどってみようと思って、千葉県の加茂を訪ねてみました。

石井四郎の故郷・加茂を訪ねる

 成田空港のすぐ近く、今の山武郡芝山町にかつての加茂村があります。石井四郎はその地域の大地主の息子です。

 石井は村から貧しい小作人の次男や三男坊、少年から、大工、左官屋、運転手やコックなど多くの人たちを満州の一大施設へ送り込みました。ソ連が満州へなだれ込んだ70年前の夏、命からがらに帰り着いた村人たちは「731部隊の秘密は墓までもっていけ」という石井の言葉にしたがって、貝のように口をつぐんで全く語らなかった。彼の力は絶大だったようです。

 私が取材をはじめた15年前というと、まだ戦争を知る世代が健在だった頃です。

 石井家からのびる蔦を辿るうち、石井四郎の身の回りの世話をしていた女性に会うことがきたのはラッキーでした。私が東京・大森のお宅に伺うと、長男がちょうど私と同世代だったのです。彼といろいろ話をしているうちに、「うちに彼の書いたノートがあったけど、どこかへ行ってしまった」という。まさか石井四郎直筆のノートなんてあったのかしらと私は信じられない思いで、「もしありましたら是非ご連絡ください」とお願いし、その時は帰ってきました。

731少年隊員の軌跡

 もう一人、731部隊について私がいろいろと教えていただいたのが篠塚良雄さんです。

 篠塚さんは細菌戦裁判で証言した唯一の部隊員でした。細菌戦裁判というのは、1997年に180人の中国人犠牲者が、日本政府を相手取って損害賠償を求める訴えを起こしたものです。その判決が出るまで5年もかかっているのですが、結局、日本政府としては損害賠償はしないという判決になりました。ただし、日本に細菌戦部隊があり、実験をして、中国や朝鮮の方、あるいはロシアの方に非常に迷惑をかけたということはその裁判で事実認定されています。

 当時の少年隊の隊員は30人くらい。731部隊がある平房の町は、当時、ひとっ子ひとりいない平原だったそうです。その一本道をひたすら走っていくと、鉄条網の塀が見えてきた。やがて、忽然と真新しい建物が現れたといいます。標識には「何人といえども関東軍司令官の許可なくして柵内への立ち入りは厳禁に処す」。それをみた15歳の少年だった篠塚さんは、「これは一体どんな部隊か」と思ったということです。

 新しい建物のなかの7号棟と8号棟の細菌工場は「ロ号棟」と呼ばれ、捕虜を使った人体実験が行われていました。篠塚さんはノモンハン事件の時に細菌兵器を運ぶ仕事をしたり、人体実験の手伝いをさせられた時もあったそうです。その後、真珠湾攻撃で開戦。少年隊が解散すると、第4部製造の第1課にまわされました。

 当時の731部隊には、第1部研究、第2部実験、第3部防疫給水、第4部製造があり、第4部の製造は細菌兵器を製造するところでした。部長は川島清少将。篠塚さんの上司に当たるのは、柄沢十三夫という医師でした。柄沢十三夫は長野出身。極貧から身を起こしたのですが、とにかく優秀だったのでしょう、東京医学専門学校に行っています。

石井四郎の出世道

 千葉県の加茂を訪ねて半年ほど経った頃、石井四郎の身の回りを世話していた女性の長男から連絡がありました。「ノートがでてきました」というのです。私はまさかと思いましたが、早速、ニューヨークから駆けつけ、長男からノートを2冊、震える思いで受け取りました。

 直筆のノートに間違いありませんでしたが、明治の人の字ですから、今でも全部読めているとは決して言えません。たいへん難解なものでした。

 石井家の四男である四郎は大きな体で、非常に優秀でした。金沢の旧制第4高等学校を経て、京都帝国大学医学部を卒業しました。そして陸軍軍医学校へ進んだ。当時、陸軍軍医学校に入れるのはほんの少数のエリートだけで、全国の医学生のなかでたった100人足らずだったそうです。

 その後、近衛歩兵第3連隊などを経て、陸軍から京都帝国大学大学院へ送られました。これは内地留学と呼ばれ、出世コースに乗ったということだそうです。陸軍が石井を大学院へ送った目的は、「細菌学、血清学、予防医学、病理のための研究」でした。

ヨーロッパ旅行から濾水機開発へ

 1925年、化学兵器と細菌兵器の使用を禁じるジュネーブ議定書が、締結されました。しかし、その裏で石井は「条約で禁止するほど細菌兵器が脅威であり、つまり有効というなら、ひとつこれを開発しない手はない」と考えたそうです。

 この頃、石井は2年間の不可解な長期海外旅行に出ています。帰国後に、「最強諸国が細菌戦の準備を行っており、もし、日本がかかる準備を行わなければ、将来戦において、日本は大きな困難に遭遇するであろう」といって、日本陸軍省および参謀本部の幹部たちに、説いてまわったのです。

 資源の不十分な日本でもできる「新兵器」という言葉に幹部は魅了され、それならお金を出そうと動いていきます。

総合医学研究施設の構想とともに

 1936年、背陰河というところで、石井部隊の前身となる「東郷部隊」を発足させます。

 1940年には1000万円という年間予算が組まれています。すごいお金です。石井は、「ロックフェラー研究所」や「パスツール研究所」のような総合医学研究施設をつくりたいと考えました。 

 しかし一方で、最も肝心なのは、「内地でできないことを行うためには満州の北端に行けばいい」と石井が考えたことです。つまり、人体実験ができると考えたのでしょう。

 そうした言葉につられたのか。あるいは行きたくないという医師もいたかもしれませんが、京都帝大医学部から、助教授や講師クラスの若い優秀な研究者が、軍属の技師として派遣されることになりました。

 病理の石川太刀雄丸、解剖の岡本耕造、チフスの田部井和、コレラの湊正男、凍傷の吉村寿人、翌年には第2陣としてウイルスの笠原四郎、天然痘の貴宝院秋夫、結核の二木秀雄などが到着。

 彼らが第1部研究班の班長になって、それぞれの研究を進めていきました。また、後に「ミドリ十字」を設立する内藤良一は、東京の「防疫研究室」に残り、「石井機関」と呼ばれるほどに広がった防疫給水を含むネットワークを総括していた様子です。

細菌戦からペストノミの大量生産へ

 こうして1940年、浙江省寧波、金華、玉山などの都市へコレラ菌やチフス菌の散布が行われました。しかし、上手くいかなかった。そこでペスト菌に感染したノミを寧波や金華に投下していきました。

 石井はペストノミを使った作戦の成功に大いに満足し、記録フィルムを作製。軍隊内で大々的に宣伝する一方、ペスト菌をそれ以降の大規模な細菌作戦の兵器として選んだわけです。それでペストノミの生産能力の拡大に力を入れるようになりました。

 その後、常徳でペストノミを1000メートル上空から投下。1942年には浙かん作戦などをやっていくわけですが、この頃、一時的に石井四郎は異動になって東京に帰ります。その後、731部隊の二代目の隊長として送られたのが北野政次。しかし、1945年3月には戦況が悪化、石井が部隊に戻りました。

 石井は着任後、熱弁をふるってこういったそうです。

「戦況は悪化しつつある。春の末、あるいは夏に日本の好転を期して、細菌兵器を含む最後の手段を用いなければならない」

 そこでペストノミをつくるためのネズミの増殖を命令し、「9月までに300万匹集めろ」という話になるわけです。

下された証拠隠滅命令

 ところが、8月8日、ソ連が満州に侵攻。予想していたよりずっと早かった。陸軍省としては細菌兵器こそが起死回生の秘密兵器だったはずなのに、ソ連の侵攻が予想をはるかに上回るスピードだったので、目にも止まらぬ早さで、平房の一大施設の撤収・撤去作業を余儀なくされた。

 その後の石井の足取りは、これまで全く掴めていませんでした。ところが、私が発見した石井の「終戦当時メモ」にはその時の詳細が見事に描かれています。関東軍に見放され、辛苦をなめたおよそ100万人の避難民に比べると、石井部隊がいかに手際よく撤収したか、石井メモにディテールが記録されています。

 〈8月8日、ソ連軍対日宣戦布告。12班の破壊〉〈8月9日原子爆弾〉〈関東軍より電報〉〈8月11日、新京より軍司令官当地訪問〉。

 東京の参謀本部から朝枝繁春参謀が来て、新京の軍用飛行場の格納庫で石井は朝枝参謀と1時間立ち話をしました。当時、朝枝は33歳、石井は53歳。20歳も下の参謀に命令されたのです。

「貴部隊は全面的に解消し、部隊員は一刻も早く日本本土に帰国させ、一切の証拠物件は永久に、この地球上から雲散霧消すること」「このために工兵一個中隊と爆薬5トンを配属するように手配済み」と朝枝参謀は言い、更に次のような命令を下しました。

 「建物内のマルタ(捕虜)は電動機で処理し、貴部隊のボイラーで焼いた上、その灰は全て松花江に流し捨てること」「職員は婦女子こどもに至るまで、満鉄で大連へ輸送の上、内地に送還すること」。この時、石井は「研究データだけでも持ち帰ってはなりませんか?」と食い下がったといいます。しかし、若い参謀は言下に却下しました。

 石井メモには、石井が参謀の言うことを聞かず、データばかりでなく、濾水機やワクチンまでもそっと持ち帰ったことが記されてあります。それが後年、米軍との取引で石井たちを救うことになるのです。

 こうしてついに進駐軍が上陸、マッカーサーがコーンパイプを手にして厚木飛行場へ降りてくるわけですが、その時マッカーサーは「ジェネラル石井はどこにいるか?」と言ったという説があります。

内藤良一とサンダースリポート

 その後、米軍はメリーランド州フレデリックにある細菌戦基地「キャンプ・デトリック」から医師を派遣してきました。マレー・サンダースという医師が横浜の埠頭に着いた時、「ドクター、サンダース」と声を掛けてきたのが内藤良一です。彼はサンダースの写真を手に、本人を見極めながら声をかけてきた。つまり、誰かが裏で手を引いていたということです。

 サンダースは細菌戦基地の専門家として送られてきたのですが、731部隊について事前の知識は何もありませんでした。それで「部隊の解明には、東京裁判で戦争犯罪に問わないという免責を約束しない限りうまくいかない」とマッカーサーに頼みこみます。マッカーサーもこれをきいて頷くのです。一方、内藤には「このままでは戦犯を扱う部門に引き継ぐしかない」と脅して、リポートを仕上げさせた。しかし、「捕虜がモルモットとして使われたか?」と聞かれても、内藤は「そんなことはない」と答えるばかり。サンダースリポートはおよそ不完全なリポートで終わりました。

再び不発に終わったトンプソンリポート

 1945年の秋から暮れにかけて、石井部隊に関する話がさまざまな形で世に出始めました。なによりマッカーサーは民間の投書を奨励していました。その結果、1カ月に1000通くらいの手紙がマッカーサーに届き、なかには731部隊のことを書いてきた民間の投書もありました。

 総司令部はマッカーサーの命令で石井を連行するように日本政府へ連絡を出します。当の石井は、加茂の実家に移り、ひっそりと身を隠していました。そこへある晩、黒塗りの車が迎えに来て連れて行かれた。迎えに来たのは日本人です。「占領軍と話がついたから、若松町の自宅にいて大丈夫」だといわれたのでしょう。東京の自宅へ戻ります。

 この後、マレー・サンダースに続いて、獣医のアーヴォ・トンプソンという軍医が送られてきました。石井の尋問が可能になって、トンプソンは若松町の自宅へ訪ねるのですが、石井は病気だと言って伏せっていて、質問には何も答えません。もちろん、人体実験を含む細菌兵器の開発の情報などトンプソンは何も引き出せなかったのです。

シベリア抑留での柄沢供述

 米軍の追求をうまく逃れたと思っていた石井の前に、1947年1月、今度はソ連が石井を含む3人の医師の身柄引渡を要求してきました。ソ連は「731部隊が人体実験で多くの人間を殺害していた」という、それまでアメリカが掴めなかった事実を探り出して、3人の軍医の尋問を要求してきたのです。

 その情報は、ソ連に抑留されていた731部隊の軍医から、もたらされたものでした。少年隊の篠塚良雄がいた、第4部製造の第1班の班長、柄沢十三夫と彼の上司にあたる川島清少将が、ソ連軍に連行されて抑留されていました。彼らはハバロフスクの第45収容所に収監され、拷問もかなりあったのでしょう。これ以上、隠すことができなくなったのです。ついに、柄沢が「医師の良心として全てをお話いたします」と言って、次のような供述をしたのです。「私はこの研究に参加し、実際、何も語りたくないのだが、語らなければ、私の精神の重荷となってしまう。この研究、実験については、日本軍人の誰かが説明することが義務と考えていたが、今、私が博愛のため、医術に関わる医師のひとりとして説明したい」。

 これは、ソ連が開いた「ハバロフスク裁判」の記録です。少なくとも、80人か100人の医師を抱えていた平房の研究室にも、人間を実験に使うことに強い良心の呵責を覚えていた医師が、ひとりはいたということです。

 柄沢十三夫は京都帝国大学のエリートではなく、委託学生として東京医学専門学校を出た実直な医師でした。1年間口を閉ざしていた彼は、ついに石井部隊の全てを語ることによって、医師としての良心を取り戻したいと思ったのでしょう。部隊の編成、責任者、研究内容、設備、人体実験の事実、中国での細菌兵器使用など詳細にわたって供述しました。もし、柄沢の供述がなかったら、731部隊の研究成果を巡ってソ連とアメリカがしのぎを削ることもなかったでしょうし、後に石井四郎の真の姿が暴かれることもなかったのだろうと思います。

 同じ収容所に収監されていた川島少将も、観念してペストノミの散布やペストノミの入った陶磁器製爆弾の投下などについて供述を行いました。

ついに確認された人体実験の事実

 こうしてソ連は東京裁判の検事局に石井を含む3人の引渡を要求してきました。ところが、アメリカとしては大変困ったわけです。彼らは人体実験についてちゃんと掴んでいなかったのですから。そこで「このことは分かっていたが、友好国としてのジェスチャーとしてソ連には尋問を許すことにした」という対応をした。非常に政治的です。

 そのための専門家として送られてきたのが、ノバート・フェル博士です。彼は石井たちに戦犯免責を約束して、非常に詳細な調査をしました。そして、人体実験、ノミの大量生産、中国に対する実験については一言もソ連に漏らさぬように。またアメリカ側から指示を受けたということは、決していうなと詳細に打ち合わせました。こうして石井らはソ連の尋問に応じましたが、ソ連は何も引き出せず、たいへん悔しい思いをしたということです。

 この時、フェル博士は石井の副官だった増田知貞から「人体実験は1933年から始められていた」ということを聞き出します。背陰河の東郷部隊からすでに人体実験が行われていたことが明らかになったのです。

 そして増田の提案で、「19人の医師による60ページに及ぶ英文の人体実験リポート」が作成されました。しかしそれは、まだ発見されてはいません。

 こうやってフェルリポートが完成し、その間に病理標本8000枚も出てきました。それらを解明し、医学的文書をつくるために、次のエドウイン・ヒル博士とジョセフ・ビクター博士が送られてきました。こうしてアメリカの調査は一応終わりました。

石井四郎の戦後人生

 その後の石井四郎ですが、晩年には近くの月桂寺というお寺に通って、僧侶と禅問答に明け暮れたようです。その生活の様子が石井メモに細かく記されています。

 〈石井は大地主にあらず、勤労所得者なり〉

 こんなことも書いていますね。本当にごく普通の市民です。子どもの教育を心配してみたり、とにかく食べ物がない時代ですから食べ物をどうやって手に入れるか、また煙草をどうやって手に入れるかなど、いろいろ書いてあります。

 私が石井メモで見つけた大きな発見は、石井がアメリカ軍情報部の将校6人を自宅に呼んで接待したという記述です。その晩のメニューまで細かく書いてある。それは2冊目のノートで1945年11月の日記だったことが分かりました。表向きにはまだ行方不明でした。

 つまり、いかに闇が深いか。その深淵を覗き込む思いでした。一体、石井とそこまで親しくなっていた米軍情報部の軍人は誰なのか、日本人は関与していたのか。恐らく、日本側は、GHQに協力していた元参謀の有末精三だと思いますが、そういう人が間に立って石井を隠していたにちがいないのです。

 結局、石井メモには、医師として人間的に恥じるようなことをしたというような記述は何一つありませんでした。いかに戦犯から逃れるか、それに関してはいろんなことが書いてあります。ソ連のことも、アメリカのことも書いてある。サンダースもトンプソンも出てくる。しかし、どうして自分があんなことをしたのか、医師としての倫理については一言も書いていない。

 ところが石井四郎は晩年になって、上智大学の学長だったヘルマン・ホイヴェルス神父に洗礼を受けたという話があります。私がそのことをイグナチオ教会へ問い合わせたところ、「そういう記録はない」ということでしたが、禅問答をしたり、キリスト教に傾倒したということは、恐らく最後の最後になって気持ちが揺らいできたのでなかろうかと私は想像します。咽頭がんだということが分かった後かもしれません。享年67でした。

日米ともに731の教訓を未来へ

 私に来た最近の問い合わせで少しビックリしたのは、アメリカ合衆国国土安全保障省からのものでした。9・11の後すぐにできた大きな組織ですが、そこが石井四郎の「終戦メモ」を読みたいといってきたのです。私が「持ち主に連絡しなければいけません」といったら、それ以降何も言ってきていませんが。

 アメリカ政府は多くの文書を解禁にしています。にもかかわらず、日本政府は何もしていない。日本政府が過去を正視しようとしないのは、恥ずべきことだと思います。政府でなくとも、何かできることはあるのではないかと。たとえば、日米の医師が協力して一緒に研究するなどといったことはできないものでしょうか。現在はすでにそういう時代に入ったのではないかと私は思います。 

当日の模様は協会ホームページからご覧いただけます。

ぜひ、ご参照下さい。

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