特集1 地域紹介シリーズ(10) 左京風雅  PDF

特集 地域紹介シリーズ(10) 左京風雅

 地域紹介シリーズ第10弾となる座談会を、下鴨神社で開催。出席者は左京医師会の山際哲夫氏、藤田宗氏、浮村直樹氏、澤田親男氏、山本博協会理事(司会)で、左京の地域医療の移り変わりと現状を語っていただいた。また、ゲストに下鴨神社宮司の新木直人氏をお招きし、下鴨神社にまつわる歴史や葵祭などについてお話しいただいた。

第一部 いにしえの趣がそのままに

古代の祭祀

 新木 葵祭は、一般の神社のお祭りとは内容が少々違い、今年が1470年目という古代の祭祀です。行列が糺の森に着いてから行われる社頭の儀では、勅使(天皇のお使い)がお供えをされ、宣命(天皇のお言葉)を読み上げられます。神主はお手伝いするだけで出番が全くないという、ちょっと変わった祭祀です。

 応仁の乱、天文法華の乱や明治維新、戦争などのために行列ができなかった時代もありましたが、楼門の中での社頭の儀は1470年間、途絶えることなく続いています。

葵祭の行列

 現在の行列は約530人、お馬さんが36頭、人を乗せて歩くと途中でへたばってしまいますので予備に10頭くらいです。牛も実際は2頭でいいのですが、牛車は重たいもので2トンほどありますので、合計6頭準備します。我々が子どものころは、田んぼでいくらでも働いていたのですが、このごろは牛が引っ張っているところなど、皆さんご覧になったことはないでしょう。現在は牛が京都にほとんどいませんので、品評会や闘牛用のものを四国など遠いところから借りてきています。

 人間のほうも、今の子どもたちは草履がなかなかはけず、足首にくくりつけて脱げないようにしないと歩けない。行列の530人の人集めも大変ですけれども、それ以上に基本ができていないということが問題ではないかと思っております。

 朝5時ごろからお化粧や装束の準備をして、ようやく10時半に行列が出発します。丸太町通の堺町御門から出て、河原町通を通って、途中で休憩しながら11時40分ごろに糺の森に着きます。それから社頭の儀があり、しばらく休憩して2時10分に下鴨本通から上賀茂神社へ行くというのがコースになっております。

 50年ほど前、川端通ができたばかりの頃は、河原町通を上がらずに川端通を北へ上がりました。3、4年は川端通を通っていましたが、丸太町の橋を架け換える工事があり、それを機会にまた河原町通に戻りました。

葵祭の特徴

 祇園祭は庶民の信仰をもとに行われるお祭りですが、葵祭は天皇が国家国民の安泰、五穀豊穣を祈るお祭りで、内容も祇園祭とは違って、神輿や山車はありません。お祭りの装束もいろいろな道具類も、お祭りの姿が完成した平安時代から変わらず今日まで来ていますので、平安時代の勉強をされるには一番良いのではないかと思います。

 古代の葵祭は、流鏑馬や御影祭りなど、お馬さんが走ることが行事の中心でした。人間の能力は限られていますが、お馬さんや他の動物は、人間が持っていない優れた能力を発揮するので、それが信仰の対象でした。

 葵祭は下鴨神社だけのお祭りではなく、上賀茂神社でも同じようなお祭りをします。下鴨神社のご祭神は賀茂建角身命(西殿)と玉依姫命(東殿)で、上賀茂神社のご祭神の祖父と母になります。上賀茂神社のご祭神は賀茂別雷大神で、玉依姫命の子どもです。神様が一族なんです。

 よく「賀茂氏」と言われますが、ここに祀ってある神様の子孫を「賀茂氏」と言いまして、奈良時代少し前、飛鳥の時代に一族がたくさんおり、だんだんと上賀茂を祀る一族と下鴨を祀る一族に集合するようになった。22の系統があり、それらを総称して「賀茂氏」と言います。

 山際 府立医大に通っていた頃、葵祭の行列が川端通を通っているところを、実習中に見ていたのを覚えています。

 山本 行列に飾ってある藤の花は本物ですか?

 新木 造花です。旧暦の時代は4月の中の酉の日で、藤も咲いていましたが、新暦ではまだ花の時期ではないですから。

 山本 斎王代というのは、当初からあったのですか?

 新木 今は京都の若い女性たちですが、かつては天皇の娘さんでした。西暦800(弘仁元)年に「斎王」の制度ができ、後鳥羽天皇のお嬢さんの礼子内親王まで35代、400年間続いたのですが、伊勢の方も賀茂の方も戦乱のためにいったん途絶えました。明治維新になってから伊勢が復活して、続いて賀茂もということだったんですが、戦争があってそのままになりました。戦後、1956年から観光用に「斎王代」として復活しました。

 山本 それにしても、千年以上も続くお祭りというのは珍しいですね。

 新木 ヨーロッパの王室など外国からも見学においでになります。「こちらは歴史があるだけだけれども、京都の祭りはみんながいい祭りにしようという意識のもとにやっていますから、心の持ちようが違います」と、みなさん感心して帰られます。

 藤田 維持していくのは本当に大変ですね。

 山本 装束の管理だけでもね。

 新木 まず、500人分の装束を置く蔵がありませんので、神社に置いているのは100人分ほどで、あとは御所の蔵に置かせてもらっています。古くなったからといって処分するわけにもいきません。それはそれで保存して、新しいものはしょっちゅう手入れをしないといけません。今年も雨に降られまして…。

 山本 雨に降られたら、着物とかも傷みますしね。牛車などは、御所のものですか?

 新木 御所のものを借りています。それも、突き詰めれば天皇の個人のものなので、借りられるわけなんです。

 山際 お金の話で恐縮ですが、すごくかかるわけでしょう? それは、どこが主に出されているんですか?

 新木 糺の森に入ってからは宗教行事なので、みな神社持ちですが、神社の外では観光協会が有料席による収入をいろんなことに使います。それでは足りないので、市民や市内企業の寄付、京都府と京都市の補助金約2千万円で、年間6千万円くらいになります。

 来年は式年遷宮で、今年と来年は二重になるものですから、余計大変です。糺の森の中に、国宝と重要文化財の社殿が55棟、文化財でないものが30棟ほど。全部で85棟ほどあって、それを21年ごとに全部修理します。文化財のものは国が補助金を50%出してくれるんですが、残りは自分持ちなので、10年ほど前から、全国の一部上場企業や経団連から寄付を集めて回っています。

 山際 宮大工の人も、少ないんでしょう?

 新木 遷宮のある神社は、古代から大工、左官屋、竹細工屋などの大きな組織を抱えていますが、今は神社の仕事だけでは生活できませんので、町家や数寄屋の修理などもやっています。お茶室や数寄屋造りの建築はお手のもので、近ごろはそちらの方が引っ張りだこです。

 京都では、遷宮は上賀茂と下鴨にしかありません。上賀茂さんのほうは建物の数も半分くらいで、境内も木が周辺にあるだけですが、ここは雑木林があって、手入れも相当な費用がかかります。今年は特に昨年一昨年の日照りが影響して、樫の木や楢の木が虫にやられて、200本近く処分しました。

 浮村 専門の方に言わせると、糺の森は植生も人が入る前からのものが唯一残っている原始林ということですから、貴重なものですので、なおいっそう大変だと思いますね。

 山本 葵祭や神社そのものの歴史が垣間見えるお話でした。ありがとうございます。興味はつきませんが、そろそろ第二部へ移りたいと思います。

第二部 地域連携のパイオニア

地域医療への取り組み

 山際 左京医師会は、地域医療という点では他の地域よりも非常に進んでいて、モデル事業などに取り組んでいたのですが、私が昨年5月に会長へ就任した際、地域医療委員会を検診委員会と地域連携委員会に分け、その中で部会を作りました。

 採算部門である特定健診、胃がん検診、乳がん検診などをメインに担うのが検診委員会です。地域連携委員会は、在宅医療部会、認知症部会、災害対策部会に分かれています。災害対策部会は以前は災害対策委員会だったのですが、もっときめ細かく、委員以外にも興味のある多くの先生が集まって話をしていこうということで、部会という形にさせていただきました。

 在宅医療部会に関しては、今日は特に他の地区との違いをアピールしたいということで、認知症部会の澤田理事と災害対策部会の浮村理事からお話しさせていただきます。

 左京の地域医療の歴史に関しては、藤田元会長からお話しいただきたいと思います。

「左京方式」の歴史

 藤田 左京医師会は昔から、地域医療に非常に力を入れてきました。1979年に地域医療委員会を作り、91年にその中に在宅医療部会ができ、地域医療だけではなく福祉なども含めてみんなで話していこうということで、地域ケア連絡協議会作りに動き出しました。それが「左京方式」と言われるもので、医師、薬剤師、看護師、消防、民生委員、福祉委員などが同じテーブルで話ができるような会にしたいという思いがありました。当時の福祉事務所の担当福祉課長と毎週打ち合わせをし、約1年かかって92年度から「在宅高齢者地域ケア連絡協議会」(以下、地域ケア連絡協議会)が発足しました。

 地域ケア連絡協議会の上には保健、医療、福祉協議会があり、そこでは左京全体の大きな問題を考えるという2本立てで、これも全部全員が同じ目線でやろうというのが左京の一番の特徴です。そして、地域ケア連絡協議会の下にいろんな官公庁や民間組織があるという構図です。地域ケア連絡協議会では消防、民生委員、老人福祉員、児童委員、老人会、女性会などが毎月100人〜120人で会合しているので、お互いの顔が見えています。

 我々と福祉事務所が猛烈にがんばったので、この当時今の介護保険と同等どころかそれ以上のサービスができていました。だから、そのころのサービスを受けていた人たちからは、介護保険になってからうんと悪くなったと言われました。

 95年からは「左京高齢者のこれからの保険、医療、福祉を考えるつどい」を毎年京都会館にて開催し、多い時は850人くらいが参加します。そのうちにやっと介護保険が話題になり、98年に左京医師会が介護保険のモデル指定を受けました。当時、データを全部提供したのに全然違うものができ、財政のバックアップもないので、私たちは「これはもう5年でつぶれる」と言っていたくらいです。

 2000年に介護保険法が施行されて、地域ケア連絡協議会と事業所連絡協議会の、サービスとビジネスという二つを重ね合わせてやっていくことになりました。もともと病気の方、老人だけではなく、子どもも含めて弱者全部を見ていこう、しかもみんなが何でも本音でしゃべろうというのが地域ケア連絡協議会の基本でしたから、介護保険になってからもスムーズに事業ができて、左京では、変な事業者は案外少ないですね。左京にはこのように本当に地域医療、地域ケアというものが根付いているので、今でも京都市のトップを走っていると、みんなが言ってくれます。

 2005年の日本プライマリ・ケア学会(国際家庭医学会と併催)で私がシンポジウムの座長をした時の資料には、私たちがやろうとしていたことが大体載っています。この時には、地域ケア連絡協議会、病診連携、精神科領域におけるプライマリ・ケア、山間無医地区の地域ケアなどの話題があり、それが同時通訳で世界にネットで流れて、後にサンフランシスコなどから問い合わせが来ていました。

 山本 左京は本当にパイオニア的存在ですね。

ルーツは下鴨神社?

 新木 昔は下鴨神社でも、大学に相当する専門的な学問所、読み書きそろばんを教える子どもたちの塾(後の下鴨小学校)などを抱えていました。学問所としては、国学(歴史)と歌の学問、その他に医療、法律、家の設計などの部門がありました。

 お茶は中国から持ち込まれたというのが一般的な解釈ですが、日本にも独自のお茶がありました。これは薬の範囲内で、薬草としてお供えするなど医療にかかわるものを、神社で組織的に抱えていました。大正天皇までの侍医も、下鴨の関係の人でした。

 浮村 お薬は毒と変わらないものなので、暗殺のために毒を仕込もうとすれば仕込めたりするわけですから、天皇の命を預けるような形で下鴨神社のほうで管理をされていたということは、すごいなあと思います。それが明治以降も続いていたわけで。

 山際 左京医師会のルーツは下鴨神社ですか。

 浮村 薬草や医学、医療も含めて、京都の一番の知識は天皇のところに集まっているはずで、それは神社の知識とイコールなんですね。いちばん最先端のことを神社で扱ってこられたんだと思います。

 新木 下鴨は社家制度が盛んな神社でしたが、1871(明治4)年の法令によって社家制度が解体されました。しかし、どうしても古い神社は、社家が離れてしまうと神社自体が立ち行かなくなるので、明治維新のときにあった社家、約340軒のうち50軒ほどが残りました。その中の10軒ほどが中心となり、京都府吏員として下鴨神社へ派遣されて、神社を維持してきました。

 浮村 一つの社家に一つの専門という形で伝承されていて、医療や薬草についても代々相続をされていたのが、そこで崩壊させられることになったということですね。

 新木 340軒のうちほとんどが東京遷都でついて行き、設計する家、医師、法律、重要な暦をつくる天文学的な家も、みな東京へ行きました。

左京の災害対策

 山本 今、左京医師会では災害対策と認知症対策に熱心に取り組んでいますが、災害対策について浮村先生から、認知症対策について澤田先生からお願いします。

 浮村 医師会で想定している災害は、地震による広域災害です。そういった非常時に、地域の人々の命と生活を守るお手伝いができないかということで、制度設計を行っているところです。そもそもは藤田先生の肝いりで始まった仕事で、我々はそれを基にいろいろな制度を作っていきたいと思っています。

 医師会の提案は、各小学校が避難所になる予定なので、そこに医薬品や衛生材料を、たとえば地域の方の1、2週間分を備蓄する。医薬品や衛生材料は2、3年くらいの有効期間があるので、1年だけ2週間分を備蓄してもらう。1年経ったらまた市場に戻すことで、ランニングコストを極力抑えて将来にわたって安定した備蓄システムを構築していけないか、今行政と一緒にシステムづくりを図っています。

 広域避難所に関しては、たとえば京都大学のグラウンドがありますが、哲学の道の下に京都疏水の導水管があり、ちょうどその真下を花折断層が走っています。それが動くと周辺が水浸しになってしまうことが判明しており、今後の課題として詰めていかなければならないと思います。ですので、糺の森など開放して下さったらなと…。

 新木 開放しています。いくつかの町内が、最初に避難するのは糺の森ということになっているようです。自衛隊のヘリコプターも、鴨川べりが氾濫などで降りられない場合はここの馬場を使うということになっています。また、森の中に井戸が七つ生きていて、水質は毎年検査していますが、飲料水に使える良い水で、いつでも大丈夫です。

左京の認知症対策

 澤田 私の勤務する病院がある岩倉実相院付近の地域には「不動の瀧」という小さな瀧や、「閼伽井」という井戸があって、平安時代から、心の病の治療に用いられたということです。岩倉は日本の精神医療の発祥の地と言われ、精神医学の教科書にも必ず出てきます。

 高齢化が進んで認知症の患者さんが増えてきており、中には精神科医療を必要とする患者さんも一定の割合でおられますので、来院される患者さんも年々増えています。ただ、認知症の患者さんは高齢者が多いので、精神科医療だけで完結する問題ではなく、身体は身体で診てもらわなければいけません。家に帰るといろんな福祉サービスを受ける必要もあり、各地区の医師会も認知症に関する協議会や連携の会を作っているところです。

 左京医師会は、精神科や神経内科の医師が09年から理事に参入し、本格的に認知症部会が稼働しているのですが、幸いなことに、それ以前から医師と行政や福祉、介護などとの連携ができあがっているところに加わったので、すごくスムーズにいっています。

 医療と福祉・介護の連携も大事ですが、一般市民に啓発をすることも非常に大切だと考えています。最近は左京区の市民公開講座などもしていますが、それより前から左京区には「高齢者にやさしい店」事業という事業があります。認知症の患者さんや身体に障害をもっておられる高齢者の方が立ち寄りやすいお店として、「認知症サポーター」(国の事業)の研修を店長さんなどに受けていただき、「高齢者に優しい店です」と宣言したステッカーをお店に貼っていただくという事業から始めました。そういう店が一つできたから、すぐに認知症の方の生活が変わるというわけではないのですが、最近では商店だけでなく銀行や郵便局、タクシー会社などにも広がっており、徐々にみんなの意識が変わってきています。

 13年に京都府のオレンジプランが作られましたが、その中にも認知症の人が安心して使える事業所やお店を作ろうという京都高齢者あんしんサポート企業という事業が盛り込まれています。左京は、これの先駆けになっていたのかなと思っています。

 岩倉や市原の地域では警察や行政、地域の民生委員の方々の協力も得て、徘徊の模擬訓練をやっています。ただ、やはり左京だけで徘徊の模擬訓練やネットワークを作っていても、徘徊する人は滋賀県で見つかったり、東京で見つかったりするということもあります。我々がいろいろアイデアを出してやったことを左京以外に発信していって、京都市レベル、京都府レベル、国レベルで同じようなことをやってもらいながら連携をとっていくのが大事だと考えています。

 認知症は、これからもしばらくは増加傾向となるだろう疾患なので、できるだけ認知症になっても住みやすい街づくりを目指し、左京医師会も行政も地域も一緒になってがんばっているというのが現状です。

 山際 完璧とは言えませんが、左京での他職種との連携は、他地区から見るとうらやましいような連携ができつつあるので、そういう点ではいろんなことを進めていきやすいと思います。

 新木 徘徊というのは、昔からあったんでしょう? 今は報道されるから注目されていますが、昔はどうしておられたんでしょうか。

 澤田 昔はやはり、認知症の人の数が圧倒的に少なかったです。また、認知症になりやすい85歳以上の高齢者の人口も今よりずっと少なく、少数の85歳以上の方は長生きだということで周辺の人がご存知でした。みな一軒家で顔見知りばかりだったので、見つかることが多かったのでしょう。今は、85歳以上の高齢者の人口は年々増加しています。利便性を求めて都会に出てきた人が集合住宅などで独り暮らしをして、認知症になって外に出ても誰も知らない。大阪市や、京都市内などの都市部では、知り合いがいないので、徘徊し、そのまま行方が分からなくなってしまうことが多いと聞いています。

 新木 はやりの言葉でいうと「絆」ですか、隣同士つながりがないということですね。子どもの問題でも同じですね。

 藤田 社会福祉協議会が何とかしてそういう絆を取り戻そうとがんばっていますが、成果があがっている地区と、なかなか受け入れてくれない地区があり、地域差が非常に大きい。ただ、だんだんそういうことに目が向いていっているのは事実です。

人材豊富な左京医師会

 山際 災害対策も認知症対策も、担当理事に非常にがんばっていただいています。他の地区は、病院はあっても精神・神経科の開業医が少なかったり、小児科が少なかったりで非常に困っておられます。左京はその点人材に恵まれていて、藤田先生を中心に基礎をつくっていただいた上に少しずつ付け加えていったら、非常にいいものができるのではないかと。まだこれからですけれども、がんばってやっていきたいと思います。

 山本 左京では、藤田先生が作られた下地があって、まかれた種がだんだんと育って花を咲かせているんですね。医師同士の交流も非常に進んでいて、いろんな分野の先生方もおられて。

 山際 人材は豊富ですが、まだ掘り起こしていない。もっと若い医師が参加しやすい体制を作っていかなければならないと思います。

 山本 単に会員というだけでなく、地区医師会での活動や保険医協会の催しにも参加して、今の医療の実情を知っていただけたらと思いますね。

医療過疎地の課題

 山本 左京区は地形的に非常に範囲が広く、ほとんどが南部に集中していますが、北の過疎的な地区と南の地区との医療の提供体制についてはいかがですか?

 藤田 左京では、北部の久多と広河原(花背)が前から無医村のような状態です。久多にも、週1回は医師が行っているけれども、その他はないし、高齢者に対するサービスが何も入っていない。老健施設のバスも、採算が合わなくてあそこには来てくれない。村の人たちは、何とかがんばっていきたいと思っているのですが、それを支える社会資源や体制があまりにもできていない。道路も悪くて、市内まで40分、50分かかりますし、いろんな意味でのハンディキャップがあります。北部のたった一人のケアマネジャーが「やりたいけれど何もできない」と言っていたのが十数年前のことですが、それが今でも同じというのは残念で、もう少し何かできたらと思います。

 実際、介護保険サービスの必要な人がいて、朽木の方が近いのでそちらから入ってもらったこともありましたが、府県をまたいだサービスの場合はお金がどこからどう払われるかというのがなかなか難しくて、結局長続きしなかったんです。けれども現実はそういうこともあるので、もう少し何かできればと思います。

 山本 今日は長時間にわたり、また下鴨神社の神聖な場所で座談会をさせていただき、ありがとうございました。左京のこれまでとこれからの活動、また課題についてもいろいろお話いただきました。

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