特集3 アフガニスタンに命の水を 中村哲氏講演会 ─国際医療協力の30年  PDF

特集3 アフガニスタンに命の水を 中村哲氏講演会 ─国際医療協力の30年

講師の中村哲氏

医師。ペシャワール会現地代表。PMS(ピース・ジャパン・メディカル・サービス)総院長。1984年パキスタンのミッション病院ハンセン病棟に赴任。その傍ら難民キャンプでアフガン難民の一般診療に携わる。1989年よりアフガニスタン国内へ活動を拡げ診療を開始。2000年からは旱魃が厳しくなるアフガニスタンで飲料水・灌漑用井戸事業を始め、2003年から農村復興のため大がかりな水利事業に携わり現在に至る。

 アフガニスタンで30年におよび医療と農業の復興支援活動を続けるペシャワール会。「飢えと渇きは薬では治せない」と1600本の井戸を掘り、2003年からは農業用水路の建設を開始した中村哲医師を講師に、2013年7月28日開催の第66回定期総会で記念講演会を開催した。以下、概要を紹介する。

 みなさん、こんにちは。本日は、アフガニスタンで何が起きたのか、今何が起きつつあるのかについて、私の活動を通して紹介したいと思います。その中で1人の医師として黙っておれないこともたくさんあります。そういったことについてもぜひ知っていただきたいと思っています。

アフガニスタンという国

 アフガニスタンは日本人にとって世界でもっともわかりにくい国のひとつだと思います。実は30年活動してきた私自身もいまだよくわかりません。

 私が医学部を卒業したのが1973年です。それから40年後、まさか自分がアフガニスタンの川の中で重機を自ら運転して作業していることになるなんて、想像できませんでした。人生というのは思うようにならないものだとつくづく思います。

 簡単に現地の説明をいたします。日本ではペシャワール会といいますが、現地ではジャララバードという町を拠点に、PMS(PeaceJapanMedicalServices)という団体が活動を続けており、財政を支えているのがペシャワール会です。両団体はそういう関係です。

 アフガニスタン、あるいはパキスタンがわかりにくいことの一つに、国境がはっきりしないことがあります。私たちの活動の中心は両国の国境地帯です。もちろん国際法上の国境はありますが、しかし実際の人びとの生活において、どこまでがアフガニスタンでどこまでがパキスタンなのかよくわかりません。事実上国境がないのに国際法上は存在しているといった状況なのです。

 ペシャワールは現在戦乱のちまたで、そのためPMS本部をジャララバードに移して活動を続けています。PMSは医療団体で、現在も診療所を運営しておりますが、活動の主体は水路工事です。これについては後でくわしくご説明します。現地には職員百数十人がおりまして、日本のペシャワール会に寄せられる募金に頼って活動が続けられております。

 アフガニスタンは山の国です。日本でいうと、長野県や山梨県を大きくしたような国です。国中、山だらけです。面積は日本の1・7倍、人口は2000万人前後です。それぞれ深い谷ごとに違った民族が居住するといってもいいくらい、多くの民族によって成り立っている複合民族国家です。各民族に共通していえるのは、国民の9割以上が農民、または遊牧民で、都市生活者は元来少なかったということです。かつての食糧自給率は96%で、ほぼ自給自足に近い農業国でした。

 中央アジアの乾燥した地域で、どうしてそれだけの人びとを養えたのかというと、山々に降り積もる雪のおかげでした。ヒマヤラ山脈を西に行くと、カラコルム山脈、ヒンズークシ山脈という高い山々がありますが、このヒンズークシ山脈がアフガニスタンのほとんどの部分を占めています。6000メートル、7000メートルを超えるこれらの山々に雪が積もり、氷河をつくっています。それが夏に少しずつとけてきて、何万年か、何十万年かわかりませんが、川沿いに豊かな実りを約束します。この水により、人も動物も植物も命を永らえてきた。現地の有名な言葉に、「アフガニスタンでは金はなくても食べていけるが、雪がなくては食べていけない」というものがあります。

 もう一つ、アフガニスタンを特徴づけるのは、谷ごとに国があるといっていいくらい、いろんな民族の人たちが住んでいることです。悪くいえば地域の割拠制、良くいえば地域の自治制が非常に濃厚なところです。我々は「国」というと、中央集権的な政府があって、法律一下、国中が治まっているという状態を想像しますが、アフガニスタンはそれぞれの地域が大事なことは自分たちで決める。それのまとめ役としてシンボル的に政府が存在する。

 例えば隣の村で侵入してきた勢力に対して戦闘が行われているときに、その隣の村は中立を守っているということだってあるのです。こういった国の在り方というのは明治以前の日本では見られましたが、なかなか現在の日本では分かりにくい点があります。

 三つ目の特徴として、国民の100%近くがイスラム教徒であることです。しかも現存するイスラム教徒の中ではもっとも保守的です。保守的だから悪いということではありません。彼らはイスラムの伝統に従い、さまざまな民族が暮らしている中で、かろうじて彼らのまとまりをつくっています。イスラム教を抜きにアフガニスタンを語ることはできません。

 どんな町や村に行っても、大きなモスクがあります。モスクが地域の中心になっており、そこでいろんなもめごとが解決されていくのです。共同体の要をなしている伝統的な文化なのです。

現地の文化を受け入れるということ

 私たちの活動はハンセン病のコントロール計画から始まりました。しかし、実際努力の大部分は、一見医療とは関係がないと思われるところです。そこにエネルギーを費やしてきました。中でも苦労するのが、患者の気持ち、その地域に暮らしている人たちの気持ちをいかに理解するかということです。

 外国人が犯しやすい過ちは、自分が見たことがないもの、見慣れないものに遭遇すると、つい自分たちの物差しで判断してしまうことです。このことで現地とのトラブルが絶えず、志半ばで帰国してしまう外国人が非常に多いのが現実です。

 私たちは、現地の習慣を変えるために医療をしているわけではありません。人の命が助かるために仕事をしているわけです。私たちがその地域の文化にかかわる際には、好き嫌いの問題はあろうけれども、いっさい批判的な目で見ない、それをそのまま受け入れることを鉄則にしています。

 たとえば、女性の被り物(ブルカ)について、その是非が世界中で議論されていますが、被り物をまとうかどうかはその地域の人が決めていくことであって、外国人がとやかくいうことではありません。

戦争に巻き込まれる

 私たちが活動を始めた1984年はアフガン戦争のまっただ中でした。アフガン戦争とは78年12月、当時世界最強の陸軍といわれたソ連軍の精鋭部隊約10万人が大挙してアフガニスタンに侵攻することではじまった戦争です。以後約9年間、アフガニスタンは戦乱の中に置かれ、この戦争で死亡した人は200万人、さらに600万人もの人が難民となって国外に逃れる事態になりました。先ほど申し上げましたが、私たちが活動を始めていた地域はパキスタンですが、アフガニスタンとの国境は事実上は明確なものではありませんので、私たちもこの戦争に巻き込まれていくことになったのです。

 私たちは、戦争が下火になった暁には、ハンセン病多発地帯、すなわちそこは他の病気の多発地帯であり、しかも医療施設がほとんどないという地域ですが、そこに診療所をつくり、一般診療を行いながら、ハンセン病も他の感染症の一つとして特別扱いすることなく診るという方針を立てました。その方針のもと少しずつ動き出したわけです。

 当時、表向きは国境は閉鎖されていました。しかし先ほども申し上げた通り、アフガニスタンとパキスタンとを隔てる2800キロメートル全体を閉鎖することは絶対できません。我々も山を越えて診療所開設予定地の人びととつきあいを深めていきました。

 88年ソ連軍の撤退がはじまると、ただちに診療所開設の準備を始めました。91年から92年にかけて、戻ってくる難民たちを迎えるような形であちこちに診療所を建てていきました。

 そうこうするうちに15年が経ちました。先はまだ長いということを悟り、98年ペシャワールの一画にPMS基地病院を建設しました。新たな活動の第一歩です。日本からの補給がある限り、何十年でもがんばろうという体制ができたわけです。

人類史上例をみない大干ばつ

 ソ連軍が撤退した後もごたごたが続きましたが、タリバン政権の登場により国は落ち着きを取り戻しはじめました。政治的、宗教的なことは別として、この30年間でアフガニスタンでもっとも治安のよかったのはタリバン政権の時期です。路上に物を置いてもなくなることがないほどです。我々の仕事もこれでやりやすくなると思った。しかしその矢先に襲ってきたのが大干ばつでした。

 2000年5月、WHO(世界保健機関)が世界中に訴えた内容は鬼気迫るものがありました。現在進行中の中央アジアにおける大干ばつは、13年の今も進行していますが、これは人類が体験したことのない規模であり、中でももっとも激烈な被害を受けているのがアフガニスタンである。被災者1200万人、国民の半分が被災し、うち600万人が飢餓線上にいる。さらに100万人が餓死線上にいる、というものでした。

 01年のアメリカによるアフガニスタンへの空爆前というのは、このような状況だったのです。我々の診療所の周辺でも、見る見るうちに村が消えていきました。昨日まで住んでいた人びとが今日になるともういなくなる。まったくひどい状態でした。しかもそれは今も進行中なのです。なぜこのことが世界中に知られていないのでしょうか。不思議でなりません。ときおり報道されることといえば、タリバンとの和平交渉がどうなるか、あるいは外国兵が何人死に、タリバン兵、市民が何人死んだのか、ということばかりです。人びとが困っている肝心な点についてはほとんど報道されることはありません。

 空爆前にもっとも多かった病気は、腸管感染症、とくに赤痢でした。農業ができず、食べ物を手に入れることができなくなり栄養失調になる。それで免疫力が低下する。とくに子どもですが、咽の渇きに耐えきれなくて汚水を飲んでしまう。今日の日本で赤痢で死ぬ人はいませんが、脱水状態になると、アフガニスタンは簡単に死んでしまうのです。

 子どもが一番の犠牲者でした。飢えや渇きは薬では治せません。とにかく水を確保しなくてはならない。我々は、まず診療所の周囲の枯れた井戸の再生をはじめました。00年8月から数年間続け、最終的には1600カ所に清潔な飲料水を獲得することができました。これは20数万人の村人が難民化することを食い止めるという大きな仕事に発展しました。

空爆では解決しない問題

 そうこうしているうちに、01年9月11日を迎えます。ニューヨークでテロ事件が発生、そのテロ首謀者の属するアルカイダの頭目が当時のタリバン政権にかくまわれているということで、事件の翌日からブッシュ大統領は「アフガンに報復爆撃を行う」「十字軍を引き起こす」と発言しました。私自身、キリスト教徒でありますが、十字軍などと物騒なことは聖書のどこにも書いてありません。しかも報復爆撃などという野蛮な行為は到底認められるものではありません。

 アフガン問題とは水と食糧の問題であって、爆弾で解決する問題ではありません。当時カブールに残っていた百数十万人の人びとのほとんどは、もともとのカブール市民ではありません。干ばつで食べられなくなり田舎から逃れてきた国内避難民です。まず彼らに食べ物を届けようと、日本で支援を呼びかけ寄付を募り、1800トンの小麦粉を空爆下で配給しました。

 これに従事したのは我々の職員20人です。彼らはまさに決死隊です。当時の日本での報道では「アメリカの空爆はピンポイント攻撃といって、テロリストだけをやっつけて一般市民には迷惑をかけない人道的な爆撃である」と解説されていました。

 しかし、実際は無差別爆撃でした。爆撃で亡くなったのはほとんどが逃げ足の遅いお年寄りや女性、子どもでした。そういう空爆下での食糧配給でしたが、幸い無事にやり終えることができ、この配給がなければ餓死したであろうカブール市民10数万人の命を救うことができたのです。PMSの活動は私一人でやっているように思われていますが、実際は同胞のためなら死を顧みないというこのような勇敢な職員たちの手によって進められてきたのです。

 映像の力はものすごいものがあります。01年11月になるとタリバン政権がスッと首都から消えます。その後北部同盟というタリバンとはライバル関係にあった勢力がアメリカの後押しで首都に入ってきます。このときに、世界中が映像の力により騙されてしまいます。悪の権化タリバンを追い出し、自由と正義の味方のアメリカ同盟軍である北部同盟を歓呼として迎える市民の姿の映像です。この映像はくり返し世界中に流されました。

 これにより、それまでアメリカの戦争に反対していた人たちも、いろいろあったけどこれでよかったのかなあと受け止めたように思います。以後、アフガン問題は人びとの中から忘れ去られていくことになりました。

アフガンにもたらされた「自由」

 しかし、実際には何が起きていたのでしょうか。干ばつは治まっていません。今も進行中です。タリバン政権の崩壊により「自由」と「解放」はもたらされました。では何か自由になったのでしょうか。ケシ栽培の自由です。それまで絶滅されていたケシ栽培は、米軍の進駐とともに盛大に復活しました。数年を待たずして、アフガニスタンは世界の麻薬の94%を供給する麻薬立国になってしまったのです。

 女性も解放され、自由を得ました。しかしそれは、一家の働き手を爆撃によって失ったあと、生活のために乞食をする自由です。外国兵相手に売春する自由です。貧乏人には餓死する自由が与えられました。英語が流暢で外国人におべっかを使うのが上手なアフガン人が裕福になっていく自由もあります。

 99%の人の立場から見るのか、1%の人の立場から見るかでそれは違うかもしれませんが、私のこの見方は正しいと思います。

 私たちPMSは水を確保する活動を続けました。しかし、これまでのような飲み水を確保するだけでは十分ではありません。農業ができるようにならなければいけない。

 しかし、現地の伝統的な灌漑法では何度我々が再生を試みてもすぐに枯れてしまうのです。地下水利用も限界に来たということです。地表水に頼らざるを得ない、というのがこの時期私たちが至った結論でした。

 簡単にアフガニスタンで起きている気候変動について説明しおきましょう。気温が上がり、それまでは少しずつ溶けていっていた山の雪が一気に溶けるようになり、洪水が頻発するようになり、川から農地への取水口が簡単に壊れるようになります。洪水は頻繁に起こるようになったものの、水が必要な時期にはまったくないという状況が生じました。水が取りこめなくて、農地が荒れていく。さらに山間部では雪が大量に溶けるので、地上に水が滞留する時間が少なくなり、地下水が年々減っていきます。そして、乾燥化が進む。この悪循環が進行しています。

「緑の大地計画」のスタート

 人間は食べなくてはいけません。地下水源が枯れてきている以上、それより大きな大河川から取水する以外にありません。100の診療所をつくるよりも1本の用水路をつくったほうが人びとを救うのです。そして02年1月に立ち上げた「緑の大地計画」のもと、03年3月に潅漑用水路建設を始めました。最終的に25キロ、3000ヘクタール、10数万人の農民が救われるという成果を達成しました。

 初めは重機1台を手に入れるだけで半年以上かかりました。皆がこんなことで水路の建設なんてできるのだろうかと思いました。そして、用水路の維持・管理はさらに難しいものです。それを誰が行うのか。他ならぬ現地の農民たちです。地域の人びと自らの手で維持・管理していかねばなりません。補修しなければならないことがあっても、農民たちは重機を扱う業者を簡単に雇うことはできません。だから、現地の人びととともに、手で修復可能となる工法に基づく水路をつくらなければなりませんでした。

 そこで取り入れたのが、日本の技術でした。日本とアフガニスタンは全然違う国のようですが、地理条件については似たところがあります。急流河川が多いということと、水位差が大きいということです。夏に台風が来ると水位は一気に上がるが冬はカラカラになる。ですから、川から水を取り込む技術は似ているのです。そこで、住民の手で維持・管理できなければいけないことを考え合わせて、日本の伝統的な技術に着目しました。取水口については福岡県朝倉市にある山田堰をモデルに、そのコピーをアフガニスタンのあちこちにつくりました。この取水堰のすぐれている点は1年を通して欲しいときに欲しいだけの水をとることができる点です。護岸整備の技術も、コンクリートではなく、蛇籠工といって針金で編んだ籠に石を詰めたものを使い、護岸壁にする工法を採用しました。アフガニスタンでは石材は豊富にあります。現地の農民も石の取り扱いには非常に慣れています。これだったら自分たちで維持・管理ができると考えました。

 鉄筋コンクリートを使った三面掩蔽の水路は、水害などで壊れると補修は土木の専門家でしかできません。現地ではそんなことは到底できません。蛇籠のよさは壊れにくいことです。例え壊れても、地元の人でも簡単に補修できます。実際これまでも何度か洪水に遭いましたが、洪水で壊れたところはほとんどありません。それくらい強じんなんです。日本でも見直されている工法です。

 もちろん鉄筋コンクリートが全然いらないということではありません。ものすごい土石流が流れてくる、ダラエヌール渓谷では地下に大規模な工事を行いました。

天・地・人

 05年から次々と村が復活します。つまり灌漑用水路の効果が現れはじめたのです。改めて水の威力に驚かされました。大勢の人が村に戻り、暮らせるようになっています。

 ガンベリ沙漠というとてつもなく大きな沙漠地帯まで7年かけて用水路を完成させました。沙漠では真夏は摂氏53度にまでなります。そんな中での作業です。次々と作業員は倒れていきました。それでもみんな作業をやめようとしませんでした。彼らはほぼ全員難民だったのです。彼らの願いは二つだけです。一つは、三度三度ごはんが食べられること。もう一つは、自分の故郷で家族とともに平和に暮らすことです。この用水路が完成すると、家族を呼び寄せて家族一緒に仲良く暮らすことができる。しかし失敗すれば、また難民生活が待っている。こういった生死の瀬戸際で必死に生きようという思いがエネルギーとなったのです。これは決してきれいな話ではありません。

 こうして09年8月4日、ガンベリ沙漠に全線25キロメートル近くの用水路が開通しました。このときみんな「これで生きられる」と口々に言いました。かつての沙漠が現在、アフガニスタンの中でもっとも豊かな地域になりつつあります。

 私たちの活動方針は天・地・人に要約することができます。難しいことではありません。その地域の自然条件を読み取り、文化を尊重し、そこで暮らしている人が何を考え、何を欲しているのかを十分読んだ上で、暴力的な方法によらず、その地域の幸せを回復するということです。私たちはこれを固い方針としてきました。

 先ほども言いましたが、アフガニスタンの人びとにとってモスクは共同体の要となるところです。人が戻ってきてもモスクがないと村は成り立ちません。しかし、なかなかそれを建てることができない。村の中心となるような大きなモスクには、マドラサと呼ばれる教育施設が付属するのですが、マドラサはイスラム過激派の温床であるという国際的な認識があったため誰も建てたがらなかったのです。反米主義者とレッテルを貼られ攻撃されるからです。そこで我々が建てることになりました。このモスク建設により、村のもめ事その他は丸くおさまるようになりました。

 先ほどガンベリ沙漠を横断する水路建設について触れましたが、現在開墾が少しずつ進んでいます。開墾を可能にしたのは、水だけではなく、砂防林の造成です。こんな沙漠に本当に林なんかができるだろうかと思いましたが、成功しました。木の成長がとても早くわずか4、5年で10メートル以上も伸びます。これにより現地が完全に開墾されるのはそう遠いことではないだろうと思っています。かつての不毛な沙漠は今地域でもっとも豊かな場所になりつつあるのです。
 こうして私たちは安定灌漑地域を増やしていきました。安定灌漑というのは水が必要なときに必要なだけの量を配ることができる給水システムです。要らないときに水が余り、要るときに足りないという状況がこの何十年間ずっと続き、生産力が落ちていました。そういった地域が次々と復活していき、昨年から取り組んでいる連続堰505メートルが成れば、約1万6500ヘクタール、65万人もの農民が食べられる生活空間を実現することができるのです。 

迷信の虜になっているのは我々だ

 この約30年を振り返って思うことは、人間と自然との関係。人間はどこに行くのかという問題です。私たちは、技術にしろ政治にしろ、進歩とか改革という言葉に弱い。アフガニスタンについて、今日は戦争とか難民といった話ばかりをしてきましたが、彼らが暗い顔をして生活しているかというとそんなことありません。助っ人として日本からやって来る若者の方がよほど暗い顔をしています。これはいったいどういうことなんでしょうか。幸せというのは金さえあればなんとかつかめる、武器さえあればこの身を守ることができるという迷信の虜に、日本中あるいは世界中がなっているのではないでしょうか。そう考えれば私たちがこの迷信から自由でいられるのは役得であると思っています。
 今世界中が曲がり角にあります。私たちは重要なことは何か。何が必要で何が必要でないのか。見極める必要があるのではないでしょうか。これで私の話を終えたいと思います。ご清聴ありがとうございました。
 

 

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