特集?/地域紹介5/丹後逢刻
「飛龍観」天の橋立
地域紹介シリーズの第5回目は「丹後」。北丹医師会の谷口謙氏(86)・笹野満氏(66)、与謝医師会の吉岡均二氏(86)・岩根敏男氏(85)に丹後の地域医療の移り変わりについて語りあっていただいた。ゲストの丹後観光口コミ大使語り部の会代表・久保善康氏からは丹後の歴史や今後について伺った。
第1部“丹後王国”の地
久保 丹後観光口コミ大使の久保です。口コミ大使の活動は、「ふるさと丹後」の自慢を、観光客や、地元の子どもたちなどに分かり易く伝えていこうというのが主な目的です。会の発足から日も浅く、まだまだ満足の域には達していませんが、各方面からの期待に応えていけるよう頑張っていますのでよろしくお願いいたします。
さて丹後を語るとき、古代丹後を抜きには通れません。その昔、丹後国と書いて、タニハノミチノシリノクニと読まれていました。
奈良時代の初頭、和銅6年(713年)4月3日に朝廷の命により丹波国(タニハノクニ)の国府があった北部の加佐郡、与謝郡、丹波郡(後の中郡)、竹野郡、熊野郡の5郡を割いて、丹後国が置かれました。来る2013年は、丹後国建国から1300年の記念すべき年となります。このタイミングで“丹後”を取り上げていただくことは住民として大変嬉しく思います。
歴史を遡りますと、丹後国以前の弥生時代後期から古墳時代を経て、7世紀に令制国として丹波国(たにはのくに)と呼ばれていた頃、丹波国の中心としての丹後は、朝廷と拮抗するくらいの独自の勢力を持つ地方の大国であったとされ、西は兵庫県の北部北但播磨・但馬から東は福井嶺南・若狭、さらに近江の一部、南は今の亀岡辺りの11郡を支配下においていたといわれています。
今から25年前、故門脇禎二教授が唱える丹後王国論も正確には、丹後国(たんごのくに)になる以前の大丹波(たにわ)王国の話と私は捉えています。この頃が最も丹後が輝いていたと思われ、浪漫を感じます。
712年に古事記、720年に日本書紀が編纂され、丹後国が生まれた713年には、勅命により各地方の国の風土記の編纂が始まったといわれます。丹後国風土記も逸文として残されています。またその一部は日本書紀にも書かれています。
記紀によりますと、第9代開化天皇、第10代崇神天皇、第11代垂仁天皇の条では、丹後(当時はタニワ)と朝廷の関係が記されています。
開化天皇(BC158〜98)
若倭根子日子大毘々命(わかやまとねこひこおおびびみこと)(=開化天王)、春日の伊(い)邪(ざ)川(かわ)宮(みや)に坐(いまし)しまして天の下治めらしめしき此の天皇丹(たに)波(は)の大(おお)県(あがた)主(ぬし)名は由(ゆ)碁(ご)理(り)の女(むすめ)丹(たに)波(はの)竹(たか)野(の)媛(ひめ)を娶らして、産みませる皇(み)子(こ)比(ひ)古(こ)由(ゆ)牟(む)須(す)美(み)命(みこと)云々と古事記にみられます。
地方の豪族を単に県主、その豪族達を束ねる首長のことを大県主というそうです。当時の畿内では奈良南東部一帯を磯(し)城(きの)県(あがた)といい、丹波と同じ大県主を名乗っていたそうで、丹(たに)波(は)は紛れもない地方の大国であったことが窺えます。
「開化天皇の妃であった竹野媛は年老いて故郷丹後に帰り天照大神を斎祀ったのが始まり」とその社伝に伝わる延喜式神名帳で大社格を持つ竹野神社(別名・斎の宮神社)が丹後町にあります。竹野神社の本殿主祭神は天照大神で摂社斎の宮神社には開化天皇の二人の王子、日子坐王(ひこいますのみこ)、建(たけ)豊(とよ)波(は)豆(づ)羅(ら)和(わけ)気(のみ)王(こと)と竹野媛、そして後に麻呂子親王の四体を祭神としてお祀りしています。竹野媛の実子といわれるヒコユムスミノミコトがなぜ祀られていないのか疑問が残ります。記紀の天皇系譜によりますと、開化天皇の4人の皇子はそれぞれが異母兄弟と記載されていますが、ヒコイマスとヒコユムスミは同一人だとする説もありますが定かではありません。
崇神天皇(BC97〜30)
日子坐王は第10代崇神天皇と異母弟で、崇神天皇の命により舞鶴の青葉山を根城に悪事を働く鬼・土蜘蛛の首領「陸(くが)耳(みみ)御(のみ)笠(かさ)」を討伐した。と記紀に記され、青葉山から由良、大江町河守から大江山に追い詰め退治する物語が丹後国風土記・残(ざん)蕨(けつ)に詳しく書かれています。竹野神社以外にも日子坐王を祀る神社は現在の丹後丹波但馬の各所に見られ、この地との関係の深さがうかがえます。また、竹野神社に接するようにある全長190mの前方後円墳神明山古墳は網野・銚子山古墳、加悦・蛭子山古墳と並び丹後3大古墳と呼ばれ、日本海側では最大級の古墳です。
そして日子坐王の子で四道将軍として山陰道平定のため丹波に派遣された丹(たに)波(は)道(みち)主(ぬし)王(みこ)は丹波を平定し、久美浜の豪族・丹(た)波(にわ)之(の)河(かわ)上(かみ)之摩(ま)須(すの)郎(いら)女(つめ)を妻に娶り1男5女を儲けます。その5人の娘すべてを垂仁天皇が妃に娶ったことが古事記垂仁天皇の項で「丹波の五女を聘(め)す」と記載されています。その一人皇后「比葉須姫」が3男2女を儲け第12代景行天皇、伊勢神宮を斎祀ったとする倭姫(やまとひめ)の母とされています。
垂仁天皇(BC29〜AD70)
垂仁天皇に関しては、側近の家来、田(た)道(じ)間(ま)守(もり)が常世の国から不老不死の果実、非時香菓(ときじくのかぐのみ)=橘を持ち帰った所が、現在の木津(橘)だとして網野町に伝わっています。地名網野の由来も「白鳥伝説」として垂仁天皇時代の話として伝えられています。
門脇教授によりますと、当時の丹波の王(豪族)の系譜を考える時ユゴリ〜タカノヒメ〜ヒコユムスミ〜タニワミチヌシ〜ミカドワケの5世代と考えたほうが自然であるとしています。ヒコイマスというのは後に作られた特別の神格化された呼称だと教授は言い、ヒコユミスムとヒコイマス同一説を唱えており、そうだとすれば竹野神社に祀る祭神達も頷けます。
雄略天皇(AD456〜479)
垂仁紀から4世紀下った第21代雄略天皇までの間は、丹後(丹波)に関する記載はありません。
日本書紀によりますと、雄略22年丹後国風土記に出てくる伊根・宇良神社、網野・嶋児神社のご祭神、丹波国、与謝の浦嶋子伝説(記録にある日本最古)が記され、また翌雄略23年逃亡した蝦夷を「浦(うら)掛(かけ)の水(みな)門(と)」で退治したという記事があり浦掛=久美浜の浦(うら)明(け)、水門=久美浜の湊(みなと)宮(みや)と比定されこの丹後の事象と考えられます。
記紀の記録にはありませんが、伊勢外宮の社伝、「豊(とよ)由(う)気(け)神(じん)宮(ぐう)儀(ぎ)式(しき)帳(ちょう)」によりますと、ある日雄略天皇の夢枕に天照大神がお立ちになり「私一人では食事が安らかにできないので、丹波の比冶の郷、比(ひ)沼(ぬま)麻(のま)奈(な)為(い)にいる御饌の神、等(とよ)由(う)気(けの)大(おお)神(かみ)を近くに呼び寄せなさい」とのお告げがあり、勅命により丹波国(丹後)から伊勢国の度海(わたらい)に遷宮させたとされています。外宮の元は丹波(丹後)の神ということが明記されています。そして今も峰山町五箇の久次には延喜式内社として豊受神の分霊を祀った比(ひ)沼(ぬ)麻(ま)奈(な)為(い)神社があります。
そして丹後国風土記逸文には日本最古といわれる「羽衣天女」の物語が記され、比冶の山の眞名井の池に舞い降りた天女が豊(とよ)宇(う)賀(か)能(のめ)売(の)神(かみ)として奈(な)具(ぐ)社(しゃ)(弥栄町)の縁起として伝わっています。
用明天皇〜推古天皇
これも記紀の記録はありませんが、さらに時代は下って、第31代用明天皇、32代崇峻天皇、33代推古天皇の時代の伝承として、間(たい)人(ざ)の地名起源とする、聖徳太子の生母・穴(あな)穂(ほ)部(べ)間(はし)人(うど)皇后の丹後疎開説話そして、聖徳太子異母弟・麻呂子親王鬼退治物語と七仏薬師(寺)建立伝説が伝えられており、この頃までが丹後(丹波)と朝廷の密接な関係が窺えます。
門脇教授によれば、四世紀中ごろから六世紀初頭まで五世紀中の100年間が地域国家としての丹波王国の最盛期と捉えられると述べています。 飛鳥時代には朝廷の地方制圧がすすみ、地方豪族も順次その支配下となり中央集権体制が確立しつつ地方独自の政治・文化も衰退していったと考えられます。
籠神社・海部氏系図
丹後には正史とは違うもう一つの丹後王国があったことを忘れてはいけないと思います。丹後にはもう一つの天孫降臨が伝えられています。それは国宝海(あま)部(べ)氏系図及び海部氏勘注系図に記載された日本最古の系図といわれ、籠(この)神社主祭神「彦火明命」で海部氏の始祖として82代現宮司・海部光彦氏まで2000年以上の血脈を誇ります。この彦火明命は別名天孫「ニギハヤヒノミコト」といわれ、記紀の神代系図からその後の記載がないものの、丹波・丹後の国造の祖とされています。
海部氏は海人族の領首として古代海上交易に深く携わり、その勢力は但馬・丹後・若狭一帯に及んだとされます。
しかし、万世一系を主張する天皇系としてはもう一つの天孫の存在は好ましくないとして、ニニギを正史とし、ニギハヤヒの系統は皇族から外されたのではと推測されます。
考古学上、海部氏系図の解明は今一つ進んでいるとは思えませんが、網野出身の伴とし子氏がこの系図を元に古代丹後・丹波を4冊の単行本に纏めており、同郷の者として賛否はともかくも面白く読ませていただいています。
京都府内には約9000基の古墳があり、その内5000基がこの丹後にあります。ヤマトの天皇の古墳に匹敵する規模の丹後3大古墳には、果たして誰が被葬されているのかといった古代浪漫を感じます。
丹後ちりめんの隆盛
そしてこの丹後王国の時代以降も、丹後が丹後らしく輝いた時代があります。
それは、絹織物です。1200年前、聖武天皇にあし絹が献上され、現在も正倉院御物として保存されています。また、享保5年(1720年)に絹屋佐平治(後の森田次郎兵衛)によって京都西陣からちりめん製織の技法がもたらされ、丹後ちりめんの一大産地を形成しました。その後浮き沈みを経て戦後、がちゃまん景気といわれた昭和40年代には年間1000万反製織された丹後ちりめんですが、昭和の末期頃から着物離れ現象と輸入生地に押され、現在はピークの5%50万反の出荷まで落ち込んでいます。
私の青春時代、昭和40〜60年位までは帯地の製織も盛んで、西陣帯屋の出機として漁師、百姓の副業で家内工業の帯地製織が丹後の都々裏々まで浸透して帯御殿、ちりめん御殿といわれる新築家屋が建ち並び、建築業者、飲食業者まで潤っていましたが、この丹後から機音がすっかり聞かれなくなってもう10年以上になります。織物に見切りをつけたある者は民宿・旅館業に、ある者は鉄工関係の下請けに転業し一定の成功を見るものの、がちゃまん時代の町全体がイキイキした雰囲気は今では夢のようです。
健康長寿の郷
京丹後市で現在元気のある業種といえば機械金属くらいです。そんな中で、これから若い人たちがどんどん育つような土壌をこの丹後でつくっていかなければならないと思っています。京丹後市は現在、「健康長寿の郷」づくりに取り組んでいます。市内には男性長寿世界一の114歳になる木村次郎衛門さんがおられ、栄誉市民第1号になられました。
丹後には「長寿」に関連した伝承も多く残されています。伊根町新井には、古代中国秦から徐福が不老不死の仙薬を求めて辿り着いたといわれています。網野町木津には、垂仁天皇の家来である但馬守が非時香菓(ときじくのかぐのみ)(不老不死の霊菓=橘)を常世の国から持ち帰ったといわれています。私の近所の丹後町乗原には、人魚の肉を食べて800年生きたという八(や)百(お)比(び)丘(く)尼(に)伝説があります。伊根町、網野町には浦島伝説がありますが、常世の国で300年生きたということですから、これも長寿伝説といえるでしょう。
世界ジオパークに認定
2010年10月に経ケ岬〜鳥取・白兎海岸までの110?が山陰海岸ジオパークとしてユネスコ世界ジオパークに加盟認定されました。国内4番目の認定です。学術的に価値の高い地形地質を有し、観光だけでなく様々な方面に活用することを目的とします。保存に重きを置く世界遺産とは少し趣が異なります。しかしながら、その呼び名も馴染みがなく都市部に住む人たちにはまだまだ認知度も低く関心も薄いのが現状です。
少しずつメディアでも取り上げられるようになりましたが、地元から情報をもっともっと発信していかないといけません。それには地元の私たちがジオの恵み、すばらしさを実感認識する必要があります。
産業を活発にして、販売額を増やす。地域の魅力を高めて観光客を増やし、お金を沢山落としてもらう。この二つを車の両輪として振興を図っていかないと丹後の未来はないと思います。
もう一度栄光の丹後を目指して官民一体で頑張る時だと思います。
谷口 この地方のことが正史から消えていくのは推古天皇時代からですか。大和朝廷に対する対抗勢力だったことで正史から抹殺されたのでしょうか。
久保 記紀には推古天皇以降全然出てきませんが、記紀がまとめられた頃から敬遠されていたと思います。正史から抹殺された理由は私もそう解釈しています。丹後は、朝廷と拮抗する勢力を持っており、言うことを聞かなかった存在だったのではないかと推測しています。そういう抵抗の歴史の中で、丹後の鬼伝説が生み出されたのではないかと、私は解釈しています。
谷口 それ以来、丹後は僻地ということにされてしまったのでしょう。
久保 「丹後国」というのは読んで字のごとく、丹波の奥地という意味です。
元伊勢籠神社
宇良神社
久保善康氏
丹後観光口コミ大使
語り部の会代表
京都銀行退社後、?道の駅「てんきてんき丹後」開発準備室長(=初代駅長)、民間製菓会社「お菓子司あん」立上、NPO法人「全国まちづくりサポートセンター丹後支所」地域ガイド丹後塾長、丹後観光口コミ大使、北京都丹後ふるさと検定実行委員等を経て、2011年丹後観光口コミ大使「たんご語り部の会」発足、代表
第2部 丹後地域医療の厳しさ
猖獗を極めた結核
――ここからは、先生方に丹後の医療の移り変わりについてうかがいます。
吉岡 私が開業した当時は回虫症の患者が多かったですね。実際には胆のう結石や尿道結石の方もおられたのでしょうが、みんな回虫症と一緒くたにしてしまったのです。
最近、昔の資料を整理していたら、麻薬の数量届けの控えが出てきました。ある時期、ものすごい量の麻薬を使っていたんです。
谷口 それは私も同じです。
岩根 とにかく痛みをとめるために、よく使っていた時期がありました。
吉岡 昭和34年の開業当初、年間36アンプルだったのが、昭和38年には132アンプルに増えています。その後急激に減り、昭和末期にはゼロになっています。
笹野先生にお尋ねしますが、私が丹後中央病院にいた頃、虫垂炎が多く、当直した一晩に2、3例あったこともあり、外科の先生を起こすのが気の毒なくらいなときもありました。その後は患者数が減り、最近はあまり聞かなくなりました。なぜでしょうか。
笹野 後から考えると、上水道の普及と関係していると思います。飲み水がよくなったのです。私も若い頃は1日6人の手術をしたことがありました。峰山町など中心部は比較的早くから水道は整備されていましたが、少し離れた地域になると全て簡易水道だったのです。それが上水道として整備されてから発症数はすっと減ったと思います。
谷口 吉岡先生はよくご存じだと思いますが、舞鶴の結核病棟の患者数はものすごかったですね。ストレプトマイシンが1本1万円した時代ですから、治療にはめったに使うことができませんでした。だからストマイをうつときは「死土産だ」と言ったりしていた。
吉岡 結核予防法が昭和26年にできましたが、当時結核性脳膜炎と診断をくだすと、それはその患者さんが助からないことを意味した時代でした。ところがストマイをうつと治ったんです。ただ耳に後遺症が残る事例はありましたね。
岩根 外科系ではカリエスになる人も多かったです。
谷口 ストマイは当時、全部進駐軍からの横流しでした。
吉岡 私が聞いたのは1本5000円でしたよ。
谷口 私は吉岡先生より半年早いから1万円だったんですよ。急速に値段が下っていきましたから。
吉岡 結核予防法ができて使えるようになったときは、1本100円台にまでなっていたはずです。私は結核患者さんの往診で気胸の処置をしたことがあります。当時、往診先では気胸だけでなく、輸血、ルンバールもしました。
岩根 私も往診先でアッペの手術をしたことがありました。
一同 えーっ。
岩根 できたよ(笑い)。昭和28年頃だったかな。
吉岡 しかし、今振り返るとそんなことをよく往診先でやったものだと思いますね。
自主的に始めた輪番在宅医制度
吉岡 北丹地域で輪番在宅医制はいつごろ始まりましたか。
笹野 北丹地域での輪番医制は、昭和53年に京都府から予算をつけるから休日診療所をつくるように、ということで始まったと思います。しかし、弥栄町と久美浜町はすでに自前の病院を持っていたので計画から抜けた。残ったのが大宮、峰山、網野、丹後町ですが、丹後町は医師数が少ないからできない。網野は当時数が多かったので網野町だけでやるということになり、大宮と峰山が組んで実施することになりました。
岩根 宮津市では、休日に行ける医院が市内に一つもないというのは市民に対して申し訳ないということで、他に先駆けて市独自で始めたんです。内科が昭和40年、外科が昭和43年から。与謝3町ではそれから5年遅れて昭和45年から始まりました。他の自治体からもいい制度だと評価され、正月休みなどの前には、今の京丹後市の職員が名刺を持ってやって来て「何かあったときはお願いします」と頼まれたこともありました。
吉岡 53年に府から補助金が出るようになったのですが、与謝医師会は一度その補助金を断わったのです。
岩根 これは自発的に始めたのであって、補助金をもらうと国の下請け事業みたいになるので要らないという声が多かった。
吉岡 しかし、当時の府医師会の会長が「好きなことに使ってくれたらいい。受け取ってください」と言ってきたので受け取ったら、翌年監査があって、補助金は使途は厳格に定められている。一般会計に入れてはならないと指摘され返還させられましたことがありました。
――谷口先生は府内最高齢の警察医といわれていますが、それは次のなり手がいないということでもあるのですね。
谷口 そうですね。私は70歳で警察医になりましたが、初めての仕事をしたとき、要領がわからないと言うと、署の人は岩根先生が書かれた検案書を三つほど持ってきて、「これを参考にして下さい」と言われました。
岩根 当時、警察医はどこかで死体が発見されると、現場まで行って検案していました。私はこれに疑問を持っており、現場の仕事は警察の仕事であり、警察医は死体を署に移して条件のよい環境のもとで精度の高い診断をすべきであるというのが私の意見でした。それでしばらくすると、もっぱら署で検案することになりました。
当時の警察は条件が整っておらず、死体を署内のガレージの卓球台の上に乗せて検案するという状況だったのです。これは死体に対する冒とくであり、きちんとした検案室、霊安室をつくるよう要求しました。実は、このことを主張したいために警察医になったのです。それが改善されると警察医を辞めました。警察医会に行っても私は異端者扱いでしたね。
社会保障と納税者の権利
吉岡 私は昭和52年に介護事業を始めました。きっかけは、父親が下半身不随だったことにあります。私自身も体は弱い方だったので、私がどうかなってしまったら父親はどうなるんだろうという心配は切実なものでした。
それ以来、社会保障関係について勉強してきたわけですが、北欧の福祉国家といわれるスウェーデンの状況を調べてみると日本の問題が理解できました。スウェーデンの国民負担率は73%で、日本は39%でした。現在でも50%を超えていないと思います。一方、貯蓄額は日本はご存じのように1400兆円といわれていますが、スウェーデンはないのです。
スウェーデンでは国民は社会保障制度を支えるために、ものすごく高い税金を負担している。日本では消費税を5%から10%に上げるというだけで大きな問題になっているのに、なんでこれだけ高い税金を負担することに納得しているのか。日本との一番の違いは、政治がガラス張りになっているからなんです。スウェーデンには約200年前にオンブズマン制度ができています。
日本では勤労、教育、納税が国民の3大義務です。憲法では、勤労の権利と義務、教育を受ける権利と受けさせる義務といったように、権利と義務との関係で明記されています。ところが納税に関しては権利についての規定はなく「法律の定めるところにより納税の義務を負う」とあるだけです。つまり納めた税金の使途について管理監督する権利が国民にあることが書かれていない。日本では税金が無駄に使われたり、国民が増税に対して拒否反応を持つのはこういうところに原因があるのではないかと考えています。
菅直人さんが首相のとき、「税と社会保障の一体改革」といったことをいい、現政権に引き継がれました。社会保障に投資することにより生じる雇用の増大、経済波及効果は、いわゆるハコ物づくりの公共事業投資より大きいんですね。ある調査では、同じ1兆円を投資した場合の比較で、公共事業に投資した場合の経済波及効果は1兆7900億円、雇用効果が34万人なのに対し、社会保障に投資した場合は3兆7400億円、雇用効果は73万人ということです。
笹野 納税者の権利という点では、直接税の徴収に源泉徴収制度を導入した影響が大きいと思います。税金を納める事務を勤務する会社にやらせることにした。本来それは個人あるいは国がやるべきこと。しかし、源泉徴収することにより、サラリーマン一人ひとりは自分がいくら税金を払っているか実感しにくくなったのです。もちろん明細書をよく見たらわかりますよ。しかしこれで税金の使い途についても関心が湧かなくなってしまったのは確かでしょう。
年1回、自分で確定申告するようにすれば、自分が一体どれだけ高い税金を納めているのか実感でき、おそらくその使い途についてもいろんな意見が出るようになると思います。
医師不足問題に対策はあるか
吉岡 これからの丹後の医療について考えるとき、避けて通れないのが医師不足の問題です。私は老健施設を持っていますが、医師の確保にものすごく苦労しています。医師を確保できなかったら老健施設をやめなければなりません。薬剤師やPT、ОTの確保も難しい。京都では京大と府立医大で医師を養成していますが、国公立大学なのですから、そこを卒業した医師を北部にも回すようにする責任が行政にはあると思うのです。田舎の住民は税金を払っていながら無医村の状態を我慢しなければならないなんておかしいですよ。
笹野 健康保険にしてもあるいは介護保険にしても、田舎の住民は都市の住民と同じように保険料を払っているのにサービスを受けることができないというのは、詐欺といってもよい実態ですね。医師不足がひどくなったのには原因があります。医学部の研修制度が平成16年に変わり、臨床研修制度が導入されました。それ以後、医師不足の問題はより深刻化しましたね。それまでの大学の医局講座制度には功罪があったことはたしかですが、これで教授が医局員を適当に各地の病院に回転させていたわけです。しかし、臨床研修制度になると、研修医はたいていが都会の大きな病院に2年間行くようになりました。いったん大学の外に出た研修医は、その後大学の医局に戻るケースは少なくなりました。また、今は教授の権限は小さくなっていますので、明日からこの病院に行けとか田舎に行けとか命令できる状況ではなくなっています。私はこの制度が始まるとき、医師会を通じてこれでは地方の医師不足はたいへんなことになるから反対するよう主張していたのですが、予想通りの結果になり残念です。
岩根 医師不足が深刻化するのは目に見えていましたね。講座制でやっていたときは、今後の研究のことを考えると、教授の命令に従わざるを得ない状況がありましたからね。それがなくなった。
笹野 しかしこれは難しい問題でね。行政としてできることといえば、地方の病院に勤務する研修医を対象とした奨学金制度をつくることくらいではないですか。その人がどの病院に勤めるか、国なり自治体が強制的に決めることが憲法上許されるかということなんです。
吉岡 しかし、憲法25条には「国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」とあるでしょう。地方の医療の現状はこれに反しています。
笹野 その通りですよ。しかし政府に命令する権限はないのです。方法としては、今後開業する場合の条件として地方で1年か2年勤務することという項目を入れることが考えられますね。
岩根 しかし、そういった若い医師が1、2年地方に来てくれるだけでは、現状の解決にはならないのではないでしょうか。
笹野 もちろんそうです。しかしそういった形ででも来てもらわないことには、丹後の医療は全部潰れますよ。また、そうやって地方に来た若い医師の中に、定着してくれる人も出てくるかもしれません。
谷口 事情は日本全国同じじゃないでしょうか。秋田大学に県内の医療過疎問題を解決しようと医学部をつくったのに、卒業して大学に残った学生は100人中3人くらいしかいないということです。残り97人は自分の郷里に帰ったり、大都市に行ってしまっているんですから。
岩根 医師不足により医療過疎に憂慮して府や関係機関に働きかけることは重要ですね。こういったことは以前から指摘されていたことです。ここ数年で状況が変わったことといえば、ドクターヘリが導入されたことでしょうか。京都府、兵庫県、鳥取県という広範囲な需要にある程度対処できるようになりました。しかし、医師の数が少ない状況には変わりありません。与謝の海病院では脳外科がなくなり、脳梗塞などへの対応がむずかしくなってしまいました。憂慮すべき状態は進んでいると思います。医師会も行政もこの問題に関しては取り組みが十分ではありませんね。行政ががんばってもらわないことには、個人の力ではどうにもなりません。
吉岡 日本人はおとなしい。大震災に遭ってもおとなしいものですから、そのことが外国で称賛されていますが、外国だったら暴動が起こるくらいなことでも黙って耐えている。丹後の住民は「医師よこせっ」と暴動のひとつくらい起こしてもいいと思いますよ。
谷口 均ちゃんは昔と変わらんね。(笑い)
――時間がきてしまいました。本日はありがとうございました。
谷口 謙氏(北丹医師会)
吉岡均二氏(与謝医師会)
笹野 満氏(北丹医師会)
岩根敏男氏(与謝医師会)
ジオパーク丹後松島[日の出](久保善康氏撮影)