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特集?【講演録】今なぜ、社会保障基本法・憲章か

 10月15日に開催したシンポジウム「今なぜ、社会保障基本法・憲章か」では、社会保障各分野の報告で困難を明らかにするとともに、それを打開する構想としての社会保障基本法・憲章について二つの講演が行われた。本号で、その竹下、渡辺両氏による講演概要を掲載する。

構造改革政治に対抗する新たな福祉国家構想の輪郭

渡辺 治氏、一橋大学名誉教授・「福祉国家と基本法研究会」幹事・福祉国家構想研究会代表メンバー

渡辺 治氏
一橋大学名誉教授・「福祉国家と基本法研究会」幹事・福祉国家構想研究会代表メンバー

 野田政権が誕生しました。政権は消費税引き上げ・一体改革、TPP参加を打ちだし、構造改革の政治を止めてほしいという期待を担って登場した民主党政権は、自公政権同様の、それを上回る構造改革回帰政権となりました。国民は民主党に失望し、かといって自民党にも戻れず政治の未来に絶望しています。

 それだけに、構造改革に終止符を打つ福祉国家型政治の方向を示すことが求められています。福祉国家型政治の輪郭、とくにその中心をなす社会保障の原則、体系について考えてみたいと思います。

  1. 今なぜ福祉国家型対抗構想が必要か──四つの理由

    民主党政権という国民的経験

     はじめに、福祉国家型対抗構想が切実に求められている四つの理由から検討しましょう。第1の理由は、私たちが民主党政権を経験したことです。

     もともと民主党は、構造改革を自民党と競い合う保守第2政党として登場しました。しかし、構造改革の矛盾の激発とそれに反対する様々な大衆運動などの圧力を受けて、07年に福祉型の政策に転換しました。国民は、民主党が政権をとれば構造改革の政治をやめてくれるのではないかと期待をし、政権交代が実現したわけです。

     鳩山政権は、国民の期待に応えようとマニフェスト実現に取り組みました。子ども手当、高校授業料無償化、農家戸別所得補償を実施。また、私たちの運動の力を背景に、生活保護母子加算の復活もやりました。ところが、この動きに焦った財界と、普天間基地の国外移転方針に苛立ったアメリカの猛烈な圧力、巻き返しで、鳩山政権は動揺・後退を余儀なくされ、続く菅政権、野田政権は、再び構造改革の政治の枠内に逆戻りしました。

     民主党はなぜ構造改革政治に逆戻りしてしまったのか。構造改革政治を止める体系的な国家のあり方を構想できなかったからです。たしかに彼らは、福祉を前進させるマニフェストはもっていました。しかし、自民党からの「そんな福祉のばらまきをやって財源はいったいどこにあるのか」という攻撃に直面したとき、民主党は構造改革に代わる、日本経済を安定させ日本社会を前進させる対抗的な構想を持てなかったのです。

     2年間の民主党政権という国民的経験は私たちに二つの教訓を与えました。一つは、政治を変えれば福祉は変わる、社会保障は変わるということを明らかにしたことです。自民党政権が続いていたら、高校授業料の無償化も、子ども手当も実現できなかったことは明らかです。

     二つ目の教訓は、選挙目当てのトッピングのような福祉のマニフェストでは、憲法25条が保障する人間らしい暮らしはできないことが明らかになったことです。民主党政権の2年の政治にもかかわらず貧困と格差はあいかわらずです。構造改革から脱却するには、体系的な社会保障の構想、それを保障する税財政構想も含めた福祉国家型構想が不可欠だったということが明らかになりました。これが、福祉国家型対抗構想が緊急性を帯びている第1の理由です。

    東日本大震災と復旧・復興が提起した課題

     2番目の理由は、3月11日の大震災と原発事故、ここからの復旧・復興には、構造改革政治の停止と福祉国家型政策が不可欠だということが、かなりの国民の中に明らかになりつつあるということです。

     東北の地震と津波被害はなぜあれほど深刻化したのでしょうか。津波の被害がこれほどまでに深刻化し、しかも復旧・復興がこれだけ遅れていることの背景には、過去の自民党の大企業本位、利益誘導型の政治があり、そして、これを右から壊した構造改革の政治の影響を考えないわけにはいきません。

     東北地方は、高度成長時代から地場産業や農業の保護を打ち切られて衰退の方向に進んでいました。けれども地方はただちに衰退したわけではありませんでした。自民党が自分たちの支持基盤を守るために、ダムだ道路だ新幹線だといって、湯水のように公共事業投資を行って雇用を支え、企業を誘致したからです。これを右から変えたのが構造改革です。大企業の負担を軽くするためには、財政を拡大する公共事業投資などムダだということで、小泉政権が行った地方構造改革の下で、公共事業は切られ、雇用は縮小していきました。地方自治体の財政は軒並み赤字財政に陥りました。公務員のリストラが行われ、福祉、介護、医療分野の予算が削減されました。そこに地震と津波が襲ったのです。

     ですから大震災、原発事故からの本当の意味での復旧・復興は、構造改革でぼろぼろになった公務部門、社会保障制度を復活させねばなりません。さらに根本的には、原発に依存しない、あるいは公共事業投資に依存しない地場産業や農業を復活させることです。そういった福祉国家型の地域をつくらなければ、達成されないということが、はっきりしてきたと思います。

     また大震災は、人間らしいくらしを保障するための社会保障の原則をも垣間見させました。大震災直後、注目すべき出来事がありました。厚労省が異例の特例措置を矢継ぎ早に通知したことです。たとえば医療に関しては、震災により保険証をなくした人も医療機関にかかれるようにしなければならないといった趣旨の通知を地方自治体と医療機関に出しました。保険料の支払いが滞った人に対しては支払いを猶予する措置も取りました。窓口負担の代金を払えない人に対しても医療を提供すると決めました。

     ここから私たちは二つのことを学べます。一つは、ここに社会保障のあるべき姿が現れているという点です。厚労省は震災被害に驚いてやった措置ですが、本来、保険料は応能負担でなければならないし、窓口負担はゼロにして安心して医療にかかれるのです。ところが厚労省は構造改革の下で、保険料を支払えない人に資格証明書を出したり、窓口負担を上げたり、一体改革では、受診時定額負担をとろうとしています。この方向が誤りであることが明らかになりました。

     学ぶべき第二の点は、これら特例措置が地方自治体によってしばしば無視されたことにかかわっています。通知通りに医療機関の窓口負担を無料にしたり生活保護受け入れを緩和したりすると、自治体の財政が持たないからです。ここに地方構造改革の弊害が現れているのです。国の社会保障に対する責任が、この間の地域主権改革と称するもので放棄され、また構造改革の中で地方自治体が壊されたことが、厚労省の通知が自治体に入らなかった大きな原因です。社会保障の構造改革を止めて、福祉国家型の社会保障制度をつくるべきだということが、震災という大きな出来事の中ではっきり示されたのではないでしょうか。

     大震災からの復旧・復興も、国の財政出動、財政保障の重要性を示しました。大震災の復旧・復興は大企業本位、ゼネコン本位で進められた阪神淡路大震災のときよりも、遅れています。大企業負担に直結する財政出動を渋る財界の圧力で菅政権が、財政出動をサボったからです。がれきの処理でも仮設住宅の建設でもそうです。国が財政出動を回避し、構造改革の赤字に苦しむ地方自治体に丸投げしたことが、復旧の遅れを引き起こしています。

    民主党の構造改革型復興構想への対決

     3・11後、民主党政権は、大震災が構造改革政治の停止と福祉国家型政治を求めているという教訓とはまったく逆に、この震災をテコにして構造改革型復興構想、構造改革型の社会保障改革構想を打ち出しました。これと対決し、こうした方向に歯止めをかけるためにも、福祉国家型構想を対置する必要が出てきた。これが理由の3点目です。

     4月6日、経済同友会は「第2次緊急アピール」を出しました。アピールは、被災地を大企業本位の構造改革型地域づくりのモデルにする構想を打ち出しました。アピールは、津波で農地から農民が追い出されたことを絶好のチャンスに、これまで構造改革の中でやろうとしてもできなかった農地の集約化を主張し、漁民たちが船を失い漁港を失ったこのチャンスに、大企業の参入による漁業、漁港の集約化を打ちだした。大企業が入りやすいように、道州制、法人税引き下げ、原発再稼働なども打ち出しました。

     菅政権の東日本大震災復興会議の「復興への提言」ではそっくりそのままこれを採用したのです。

     今年6月に政府の「社会保障改革に関する集中検討会議」は「社会保障と税の一体改革」をまとめましたが、この社会保障の分野でも同じことがいえます。

     そもそも社会保障と税の一体改革とは何か。一体改革は、小泉構造改革政治の被害が深刻化しそれを弥縫しないと、構造改革を前に進めることができない段階で出てきた構想でした。これ以上社会保障を切り捨てると、貧困や餓死や自殺、ネットカフェ難民が増えて構造改革の推進どころではなくなる。一定程度、社会保障の支出を拡大する必要があります。しかし、そのために大企業の負担を増やすことはできないので、消費税を大々的に引き上げるという構想で一定の「積極性」はありました。

     ところが、菅政権の集中検討会議では、もともと消費税引き上げの口実として「一体改革」が持ち出されていたふしがあり、3・11の後には、さらに変質したのです。大震災と原発事故の被害からの復興にあたって大量の財源が必要になり、地方財政にも消費税が必要だという声も上がってきました。そこで社会保障の持続のためには消費税が必要だといっても消費税を独占できなくなる危険が出てきました。そこで集中検討会議は、社会保障も厳しい財政状況の下で、さらに「身を切る努力をする」、だから消費税引き上げ分は社会保障で全部使うと打ちだしたのです。ここで、一体改革という意味は、社会保障を充実するから消費税を上げてね、という意味から、社会保障もさらに切るから消費税の引き上げを認めてね、それを全部社会保障に使わせてね、という意味に変質してしまったのです。

    社会保障運動のたこつぼ化

     福祉国家型社会保障構想を必要とする四つ目の理由は、社会保障運動のたこつぼ化を克服し各分野間の運動の連帯・連携を強化していくことの重要性です。

     今、保育でも介護でも障害者福祉でも、どの分野でも同じ攻撃、すなわち現物給付原則を解体し、公的責任を放棄しようという攻撃がかけられています。相手は戦略的に同じ攻撃をかけてきているのです。

     ところが、攻撃を受けている方は、頑張ってはいるのですが、他の分野の運動のことを考える余裕はないものですからバラバラに闘っています。社会保障運動が連携して敵の同じ攻撃に向かって立ち上がり、共通の社会保障原則を掲げて闘っていくことが重要なのだと思います。

  2. 福祉国家の対抗構想はどんな柱を持つべきか──新たな福祉国家の六つの柱

     では、構造改革に対抗する福祉国家型構想はどんなものかを検討しましょう。まず言いたいのは、対案は、個々の領域に止まることはできない。国家的レベルの構想でなければならないという点です。そこでは少なくとも六つの柱をもたねばなりません。

     第1の柱は、憲法25条が私たちに保障している雇用保障と社会保障の体系です。雇用保障と社会保障は人間らしいくらしをするためのクルマの両輪です。安定した雇用は消費を拡大し経済を成長させます。雇用が壊されている状況では、社会保障費はどんどん増大していきます。いくら財源があっても足りなくなります。逆に自分のやりたい仕事、食べられる仕事を見つけるには、雇用保険や失業時保障など社会保障が完備していることが必要です。この第1の柱はまた後でくわしく触れます。

     第2の柱は、財源の問題です。消費税率を上げなくてもよい安定財源の確保が必要です。無駄を排除するということではそれは絶対にできません。大規模な社会保障と雇用の体系をつくるには、大企業にきちっとした負担をさせるということが必要です。OECD諸国の平均からみても少ない日本の大企業負担を改めることによって、社会保障と雇用の充実を図らなければなりません。第3の柱は、大企業本位でない、地域と福祉や地場産業中心の経済政策です。第4の柱は、脱原発、原発にかわるエネルギー政策です。第5の柱は、福祉国家型の真の地方自治と民主的な国家構想です。そして最後に第6の柱は、日米安保体制のない日本の安全とアジアの平和です。

     これらの国家レベルの構想の中で、社会保障の対抗構想を具体化していく必要があると思います。

  3. 社会保障の対案はなぜ必要か、どんな輪郭をもつべきか

    なぜ憲章、基本法が必要なのか

     では福祉国家型対抗構想の中心である社会保障の原則と体系はどんなものでしょうか。私たちは、それを社会保障憲章と基本法という形で本にまとめました。なぜ対案を憲章と基本法という形でまとめたのでしょうか。私たちのめざすべき社会保障の輪郭、原則を私たちは「社会保障基本法」という形でまとめました。普通、これが「憲章」といわれるものです。しかし、そうした原則がなぜ必要か、社会保障とともに雇用や教育保障がなぜ必要かなどのくわしい検討は基本法には書けません。そこで、そうした理論的根拠は憲章で考察したわけです。

     では社会保障基本法にはどんな意義があるのでしょうか。四つの意義がありますがここでは重要な二つだけを説明します。

     第1は、基本法は、憲法25条の保障する「健康で文化的な生活」とはどんなものかを具体的に示しています。私たちが運動でめざすべき社会保障とはこれだということを明らかにしています。憲法25条で十分ではないかという意見がありますが間違いです。

     憲法25条は生存権の内容を具体的に示しているわけではありません。25条の条文をいくら読んでも「健康で文化的な生活」とはどんな生活が保障されているかはわからないのです。また、25条が保障する社会保障の原則というのは、私たちの積み重ねた運動で、歴史とともに豊かになってきています。たとえば、1960年代の朝日訴訟の時代には、ジェンダー、女性の平等は「健康で文化的な」生活の原則としては意識されてはいませんでした。障害のある人に対する社会保障の原則も、運動によって中身は豊かなものになっています。そういった運動の到達点と目標を基本法では示しているのです。

     基本法の意義の二つ目は、社会保障基本法の原則によって、構造改革による様々な既存の実定法や行政を批判・点検し、その改廃を要求する武器とすることです。たとえば介護保険法は、介護の現物給付を否定し、現金給付に低めていますし、障害者自立支援法も同様です。

    基本法の内容その1
    25条に沿った社会保障の定義

     では、社会保障基本法では、福祉国家型社会保障としてどんな社会保障の輪郭、原則を提示しているのでしょうか。第1に基本法では、憲法25条が考える社会保障とは何かを規定しました(第3条)。社会保障とは何か、どのような領域のことをいうのかということについて、私たちと構造改革路線との間では激しい対立があります。私たちの定義は、社会保障というのは、人間らしいくらしを公的に保障する制度であるというものです。一方、政府の集中検討会議の「一体改革成案」では、「自助、共助でまかない切れない残余を埋める措置」が「公助」だといっています。社会保障の公的責任をできるだけ小さくしようとしてのものです。

     それに関連して「成案」では、医療保険や年金などの社会保険を「共助」だといい、社会保障の中心はこうした社会保険なのだと主張しています。厚労省では、これを「社会保険主義」といっています。ここでいっていることも、憲法の社会保障概念を変質させ、国や自治体の責任を回避しようという構造改革の発想です。

     社会保険が「共助」だと強調するのは、公的医療保険も民間の保険と同じだといいたいためです。民間保険ではみんなが困ったときのために負担をしていざというときに備えるのだから、「負担と給付」が関連しています。負担なければ給付の権利はない、社会保険もこれと同じといいたいのです。成案では「負担と給付の連関」が強調されています。

     ところが、憲法が保障する社会保障としての医療保険は、民間の保険とは全く異なる「公助」なのです。すべての人は、所得の如何にかかわらず病気になったら治療を受ける権利が保障されています。負担は能力に応じて行うべしというのが憲法の社会保険の原則です。こうした考えを否定して、保険料を払えないやつは資格証明書だという措置を正当化するのが、社会保険=共助論なのです。社会保険をどうとらえるのかということをめぐっても、「成案」と基本法にはこのような鋭い対立があります。

    基本法の内容その2
    あるべき給付の原則

     基本法の内容の第2は、給付にかかわる原則を定めている点です。たとえば、基本法8条では、普遍主義的給付の原則をうたっています。これは日本に住むすべての人びとは、所得のいかんにかかわらず必要に応じて給付を受けることができるという原則です。社会保障は、自助もできない共助もできない一部の弱者、貧困な人びと、障害を持った人びとを対象とするのだという一体改革の考え方は、これと真っ向から対立しています。

     9条では、必要充足の原則をうたっています。社会保障は必要を充たすために十分な給付を行うべきであるという考え方です。基礎的社会サービスの給付において必要充足原則は、たとえば医療の場合それは医師が決めることになります。医師の判断に従って患者の病気が治るまで医療サービスが提供されることになります。ところがこれをすると、財政は青天井になりとんでもないことになる、ということで、構造改革側からは必要充足原則を壊すためにいろいろな攻撃が加えられています。現物給付を解体して現金給付にするというのもその一つです。どんなに介護が必要でも、要介護認定が引き下げられ給付が絞られるということも必要充足原則を壊す攻撃の一つです。認定が下げられれば、どんなに必要があっても給付を受けることができなくなるわけです。また要介護認定を受けても利用料の1割負担があって、それを払えなければサービスを受けることはできません。これも費用削減の見地からの必要充足原則攻撃です。

     10条では、基礎的社会サービスの現物給付原則を述べています。基礎的社会サービスとは、誰もが絶対必要なサービスのことです。病気になれば、金持ちでも貧乏でも誰にも医療が提供されます。保育も教育にも同じ原則が適用されています。今これを崩そうとしているのが、地域主権改革であり、構造改革です。介護保険でも、障害者自立支援法でもこれが崩され、一体改革では子ども・子育て新システムという形で保育でも現物給付原則を壊そうとしています。この原則こそ、税と社会保障の一体改革が壊そうとしている社会保障原則の本丸だといえるでしょう。

    基本法の内容その3
    あるべき負担の原則

     負担にかかわる社会保障原則についても基本法はいくつかの条文をもっていますが、とくに私たちが強調しているのは、応能負担原則(15条)と、14条でうたっている企業の社会的責務です。

     企業側はこういいます。日本の経済は大企業によって成り立っている。したがって企業に対する負担増は日本経済を死滅させるものである。殺さないためには、負担を軽くして、法人税を諸外国並みに安くすべきだ。それなのに、大企業の負担をもっと重くする気か。大企業が逃げて行ったあと、日本ではどうやって社会保障を実現するつもりか。こういった言い分です。

     これに対して、私たちはこう答えます。欧米の企業と比べてみても、日本の企業は社会的責任を果たしていません。法人税が税率では高いのは事実ですが、しかしそれは重い税金を支払っていることを意味しません。せめてOECD諸国並みに社会的責務を果たしてもらう。これをやっただけで、たとえば社会保険については、保険料は応能負担、現物給付を窓口負担ゼロで行うことが可能になります。

    むすびにかえて

     私は今年の3月11日は、今後日本の歴史の転換点となり長く記憶される日となると思います。8月6日、8月15日という日が、あれから66年経った今も、くり返し振り返られるように、おそらく3月11日もこれから何十年経っても国民の多く、そして世界の人びとにとって記憶に残る日となると思います。8月15日の日を境に私たちは日本国憲法を作り、以後今日に至るまで侵略の兵を外国に送らず、戦争に巻き込まれずに歩んできました。

     この3月11日をどういう日にするのか、私たちの運動にかかっています。この日を、それまで進めてきた構造改革に終止符を打ち、憲法25条を具体化する福祉の政治への一歩が踏み出された日にすることが、私たちの責務であると思います。

裁判闘争の重要性と限界

竹下義樹氏、弁護士・日弁連貧困問題対策本部本部長代行・全国生活保護裁判連絡会事務局長

竹下義樹氏
弁護士・日弁連貧困問題対策本部本部長代行・全国生活保護裁判連絡会事務局長

 生活保護など社会保障に関する裁判をしていて痛感するのは、その裁判官が良心の塊のような人だとしても、目の前に立つ生存権を奪われた人にとって救いのある判決ができるわけではないということです。車いすの人が駅にエレベーターを作ってくれと裁判を起こしたとしましょう。これに対して裁判官は何というか。「非常に気の毒だ。しかし、エレベーターをつけることを求める根拠となる法律がない」。

 裁判にはもう一つ「裁量」という壁があります。例えば京都では、生活保護の廃止された老齢加算の復活を求める裁判で負けました。「廃止は厚生労働大臣の裁量に属するのだから裁判所の判断は及ばない」というのが判決の結論でした。法律の根拠がない。裁量の範囲内。だから認めない。これが生存権侵害からの救済を求めて訴えた原告に対する司法の判断なのです。

 もう一つより大きな壁があります。私たちは個々の人たちの人権の回復を司法の場で求めてきました。全国で今行われている生活保護裁判は30を超えています。これだけの全国の原告の切実な訴えがあっても、悲しいかな、制度は変わりません。こうした個々の裁判で新しい制度をつくっていくことができるのか。モグラたたきを続けていくことが無駄だとは思いません。しかし、命を奪われたあとに、たとえ裁判に勝ってお金がいくら入ってきたとしても仕方がないわけです。問われているのは、救済ではなく予防なのです。

 個々の原告の裁判における訴えと、社会保障憲章、憲法25条の具体化として社会保障基本法という両者を結びつけるものは何か。それは、原告の訴えが、今の政治や法律や福祉の運用のなかでどういう歪みとなって現れているのか。あるいは社会保障のどういった不備が原告の叫びとなって現れているのか明確にすることです。これを抜きにして、たとえ立派な憲章やグランドデザインを示してみても、政治や国を動かす力にはなりません。

 今日私があえて「限界」ということばを使ったのは、裁判で「法的根拠がない」とか「裁量の壁」といった理由で訴えが退けられるという意味からではありません。一人ひとりの裁判を行うというたいへんなエネルギーを費やし、大きな決断をしなければ国民の幸せをつくり出すことができない現実です。原告が憤りを裁判所に持ち出さなくてもすむ制度づくりが不可欠だという意味です。

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