特別寄稿「院内事故調報告書の提出義務はあるか」
弁護士 莇 立明
最近、ある病院の中心静脈カテーテル血管穿刺事故で裁判所がカルテなどの証拠保全を行なった。その対象検証物の中に、「院内事故調査委員会が収集・作成した資料・報告書類」が入っており問題となった。
今日の医療過誤(民事)訴訟では、院内事故調の資料、報告書類は、証拠書類として提出されることはない。患者側も要求しないし、裁判所も取り立てて求めようともしない。これが裁判実務である。これらの資料は、正規の記録である診療録(カルテ)(医師法24条)とは異なり、専ら病院内の内部的利用に供する文書(民事訴訟法220条4号ニ)であり、非公式、下書き、メモなどを含む未整理なものも多い。患者や第三者への開示はもちろん、裁判所などへの提出も全く予定されていない内輪のものだからである。裁判例を見ても、「提出義務ある文書」(民事訴訟法220条)には該らないとの理解が一般である。
◎広島高裁岡山支部平成16年4月6日決定(判例時報1874号)―国立大学付属病院の文部省への医療事故状況報告書は、公務員の「職務上の秘密に関する文書」(民訴220条4号ロ)であり提出義務を負わない。
◎東京高裁平成15年7月15日決定(判例時報1842号)―医療事故調査委の調査報告書の事情聴取部分は「専ら所持者の利用供与文書」(民訴220条4号ニ)に該当し提出義務を負わない。
ところが、厚労省が2007年4月、医療事故死などにつき「公正で中立的な第三者調査機関」としての事故調査委を国や都道府県に設置することを検討する旨を発表し、2008年4月「死亡原因究明・再発防止の在り方に関する試案(3次)」を、同年6月には同委設置法案大綱案を発表して以来、マスコミなどを通じて関係者間の議論がなされている。その中では、事故調査には第三者専門医などの中立的立場の委員を入れ、調査結果もオープンにすべきだとの意見が多いと聞く。このような情勢の中で、いま係争中の医療過誤訴訟においても院内事故調の報告書などは当然、裁判所へも提出すべきだとの意見も出るであろう。今回の例では、従来では見られなかった証拠保全の対象物にも入ってきたと見られるのである。
しかし、考えてもみてほしい。係争中の訴訟において、紛争発生後、当事者の一方が作成した内部資料文書が、相手方のための証拠として裁判所へ提出せねばならないものとすれば、争いがある案件については、かかる文書は、裁判所へ出さねばならないことを予想し、裁判所でどのように扱われ、評価されるのかを予想して調査や資料収集にかからねばならないこととなる。これでは自由、闊達な院内討議は出来にくくなり、不利な事実や意見の聴取は困難が予想される。それでは、事故に対する反省や今後の教訓を引き出すことも極めて困難となり、「公正、中立的調査」はやぶ蛇なものとなろう。
そもそも院内事故調査は、院内関係者の自由な意思によって真実の事実関係を調査・収集することを目的とする。患者側や第三者に公表することを予定したものではない。
また、一旦、調査結果が纏まり、報告書や資料が整理されても、その後の自由な議論によって事実関係や評価についても誤りや修正部分を発見し、見直しすることもまま有り得るもので、2次的調査・検討によって調査結果が変動することもある。このような可変的でもある院内調査の資料について、裁判所に提出義務を負うものとすれば、院内事故調査そのものが機能を発揮できないこととなり、医療事故に対する真相の解明・究明には役立たないことになりかねず、逆効果を及ぼすことも有り得るであろう。これでは、角を矯めて牛を殺すことになる。
政府が立案中の、国や府県における事故調査委がどのように制度設計されるか、今の議論は多岐に分かれ見通し不明と聞く。この問題は、事故調報告書の扱いいかんによって、裁判所の医療訴訟は様替わりすることも予想され、紛争解決はADR的解決機関に委ねることが構想されるかも知れない。
最後に、証拠保全された時に、出すべきもの、出さなくてもよいものを列挙する。
文書提出義務の基準は、「患者と医療機関との間の法律関係について作成された文書」(民事訴訟法220条3号)だが、「専ら病院の内部的利用に供するための文書」(同条4号ニ)は、該当せず、除外される。
◎(提出義務あるもの)
○診療録(カルテ)―この中に、医師指示簿、看護記録、血液検査、心電図などの各種検査記録、手術(麻酔を含む)記録などを含む。
○レントゲン、CT、MRIなどの画像類、ビデオ記録
◎(提出義務のないもの)
○院内事故調査に関する記録、メモ類、資料など。
○当直日誌類
○集中治療室記録
○手術場管理記録
○手術などの機材保管記録
○薬剤処方せん
○診療報酬請求書類