満洲国からの引揚 満洲生まれのつぶやき(16)
木村 敏之(宇治久世)
錦州到着
午後6時ごろ小さな田舎の駅に着いた。2列縦隊で、白旗を先頭に歩き、一行は日本へ帰れる喜びで指揮者の命令には絶対に服従し、婦人子どもをいたわりながら収容所へ向けて立派に民族行進をしたのである。
臨時収容所は以前ありふれた、日本人の暮らしていたレンガ造りの社宅であったのだが、戸も窓枠もなくなって、鉄の資材とともに、燃やせるものはすべて剥ぎ取られた廃墟であった。日本が戦争に敗れ、住む人がいなくなったとたん、勝った中国人が我先にと殺到し畳表を取り、窓ガラスをはずし、窓枠を取り、天井板から床板まで、さらに屋根瓦もすべて持ち去ったそのすさまじさは現場を見たものにしか分からないであろうと書かれ、まさしく天災でなく人災であろう。
収容所の周辺には畑と、海そして延々と続く塹壕が掘られ、本来は海からの上陸に備えてのものであったのだが、その時は日本人の墓地となったようだ。内地帰還を前にして栄養失調と日射病(今の熱中症)が主な死因で亡くなったのだからなんとも無念であっただろうと推測する。このような中で10日間ぐらい待たねば乗船できないこともあって、食べ物は極めて質素節約に努めたが、有刺鉄線の外では中国人が屋台店を出して難民への食欲をそそらせていたのである。終戦の勅語『耐え難きを耐え、忍びがたきを忍び』というのは食べ物のことであると冗談を言い交わしながら食欲を抑えたと書かれている。しかし、同じ引揚者の中には撫順の検査場をうまくしのいでいたグループもありビールなどを景気よく飲んでいたところが見られていた。いつの時代でもうまく生き逃れていく人種がいるのは世の常であり今日も変わりない。
葫蘆島(コロ島)
結局、錦州滞在の14日目(1946年6月28日)に乗船できることとなり、朝8時ごろ再び無蓋車に乗せられて葫蘆島に向かった。後によく父からもこの葫蘆島という言葉を聴いていたが、引揚げ出発の地点(島)のことであったのだ。手前に連山站(レンザンタン駅)があり、紺碧の水をたたえた渤海が望まれ、心ははしゃぐばかりであったと思われる。
ここ葫蘆島には駅がなくとも港としては恵まれており、かつて張作霖がここに鉄道を引こうとして爆死事件に遭い工事は中断されたままであった。貨車から降りた難民一行は草原に座って空を見ると澄み切った青空と濃緑の山畑、そして海の深い青色、大陸の雄大な景色のことなどの記述はこのN院長の『満洲の思い出』の著書の中でも引揚げが始まって以来である。初めての心緩む風景描写であるが、その風景が目に浮かぶのはやはり自分にも原体験が残っているからであろうか。景色に見とれているまもなく列を成して行進、検疫所へ向かい、防疫班(旧満鉄職員)によるDDT・BHCでの首、胸から体全体のエアーポンプ消毒が行われた。この情景も子ども心に非常に強烈であったのだろうか、いつまででも記憶に残っているシーンである。引揚船は「熊野丸」と胴体にはっきりと書かれていたようだ。
未完成の葫蘆島築港の図(「望郷満洲図書刊行会」写真集より 著者描く)