満洲国からの引揚 満洲生まれのつぶやき(10)
木村 敏之(宇治久世)
終戦後と引揚
引揚イメージ(著者描く)
8月27日、突然病院から電話があり「今病院の玄関付近までソ連兵がきており、歯の治療を希望している」とのこと、きっちりと歯科医長が手当てをしたことで大変喜ばれたのであるが、そのおかげで、ソ連兵T少尉を院長宅に招待することになり、家族ぐるみでもてなす羽目になったという。特別ソ連兵を恐ろしいとは思わなかったのも、生き延びるための知恵が勝ったのであろう。特にソ連兵の好きなアルコールはエチールアルコールの水割りで造った即席ウオッカであったが、自動小銃を抱えた従卒も酔うほどに心打ち解けて歌ったり、手品をやったりしたとのこと、N院長の著書『満洲の思い出』の中にはその頃の写真もあり、共に写った中には若い頃の小生の父の姿も見られた。
しかし、後にソ連兵と社宅内で歓迎会をしたことが問題となり困ったことになったらしいがさもあらん。病院の従業員が全員無事に帰国を果たすためには止むに止まれぬ対処であり、明らかに不利な状況の中でも対話をすすめ、状況を有利に進めようとする今考えても優れた判断だと思う。外務省の高官でも困難な折衝ではなかったか。後になって誤りでなかったことが証明されることになるのだが、それとは対照的に病院の庶務主任(予備役軍曹)はソ連兵恐怖症になり、あちこち逃げ回り何の役にもならなかったらしい。
幸いなことに?9月中旬になると、病院の日本人すべてがソ連軍の管理下におかれ、一時給料がもらえることになったのである。しかし、事態はソ連兵の略奪から身を守ることはきわめて重要なことなのだが、満洲人の警察も全く役に立たず、むしろソ連兵の案内役に化けたというべきか。特に夜はソ連兵も自由時間であり活躍し始めるので、日本人は皆社宅の前の背の高い藪の中にじっと身を潜めていたという。武器を持たない日本人にとっては、このような時にこそ親しくなったT少尉は強い見方であったし、対ソ連兵対策でも役に立っていただろう。一方中国人はソ連が日本の資産をすべて持っていくことに反感を持ち、ソ連兵の駐留中には事なきを得ていたことも撤退後は危ないといわれ、その点で特に著者(N院長)は一番最初にやられるのではと皆から心配された。それで11月1日には撫順行きの第一次列車が出るのでそれに乗り込むようさかんに勧められたが、若い看護婦など従業員が残っている中で自分だけ先に帰れないと拒否されていた。この時点で考えると小生などできることではない、責任感の強い大変頼りがいのあるトップリーダーだったのだと感謝するのみである。
「苦難を背負って」(毎日新聞社提供)
【京都保険医新聞第2648号_2008年7月21日_4面】