満洲からの引き揚げ 満洲生まれのつぶやき(13)

満洲からの引き揚げ 満洲生まれのつぶやき(13)

木村 敏之(宇治久世)

撫順滞在

 N院長は早速、撫順病院へ行き、10人の同行していた看護婦を就職させるお願いをされたが、残念ながら一足違いで全員が就職できなくなった。それでも医師、歯科医師は救済目的であっても採用されたことは幸いであった。看護婦達は行商、自家製タバコ作成などして販売しようとしたのだが、吸ってもとても旨いとはいえない。それでも何とか皆で巻きタバコを作っては、販売人に売って生活費を稼ぐことで生きていくことができたのであろう。著者は直接そのような経験をしていないが、亡き父は戦後自宅でも紙巻きタバコを上手に作っていた記憶がある。当時、現金収入が乏しい中、辛抱と忍耐の生活が続いたことは想像に難くない。満洲人相手の食糧確保には大変苦労があり、日本人の主食の米を買うことができないので、高粱(コーリャン)と安い肉と大豆から作成した味噌などで栄養を取ることがやっとであったのである。そのうちに発疹チフスとしらみ騒動が、パンデミックに拡がることになる。

「DDT散布」(毎日新聞社提供)
「DDT散布」(毎日新聞社提供)

 12月4、5日頃、重慶軍(国府)が奉天付近まで来ており、八路軍は逃亡したとのうわさもあり、その際日本人の医師一家が一緒に連れて行かれたと聞いたが、運が悪いとこのような事態にいつ遭うか分からない状況であったのだ。さらにこの頃、栄養状態の悪い避難民に集中してしらみのお土産である、発疹チフスは大変恐ろしいものであることは知ってはいたが、伝染病がこの撫順にも例年より早く(通常は2月頃)流行り始めた。患者は集団生活を続けている人々の中からぽつぽつ出始め、ばたばたと亡くなった。そのためN院長はある診療所所長を任されたらしいが、看護婦を連れて往診に忙しくなり、その時窮余の自家製生理食塩水が大いに役立ったという。もちろん皮下注射であるが、多くの患者さんが助かっており、その中には著者の父(外科医)もいたと後から聞いた。

 撫順到着から1カ月あまりとなり、10人の娘さんたち(看護婦さん)も紙巻タバコづくり、診療介助、自家製蒸留水作りと分担が決まって何とか生活も安定してきたかに見えてきたというから、そのたくましさは日本人としてのDNAであり、やはり全員で必ず日本へ帰るという意志の強さの証であろう。1946(昭和21)年2月14日、第3次移動組が撫順に到着した。八路軍(中共軍)が逃げ、国府軍(重慶軍)が進撃してきたのはその2日後の2月16日だった。職員の中で子どもさんが生れたので記憶に残っているとN院長は書かれているが、この間の1週間は国府軍と中共軍のにらみ合いが続いたために無警察状態となり、国府軍の撃った小銃弾に驚ろかされたり、炭鉱での仕事の終わった一行が一列縦隊で仕事からの帰り道に中国の兵隊に機銃掃射を受けるなど大変な目にあったのである。その時も外科医がいても何にもならない無念を父は漏らしている。

50人以上を乗せた無蓋の貨車(著者描く)
50人以上を乗せた無蓋の貨車(著者描く)

【京都保険医新聞第2656号_2008年9月15日_4面】

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