満州国からの引揚(9)

満州国からの引揚(9)

終戦前後N院長の言葉から

 非常警戒の中、満人の暴徒の襲撃に備えることが第一と、持ったことのない日本刀の手入れをしたりしていた。そのうちに広島に落とされた新型爆弾というのは原子爆弾であって、広島全市が一瞬にして吹っ飛んだという話がどこからともなく耳に入った。

8月15日(水)

 朝9時の定刻前に重大放送を待った。何だろう。Tさんは「陛下の蒙塵(都落ち)であろう」、他には「いや天皇の退位であろう」日本が負けたという人は1人もいなかった。

 ラジオには雑音が多くてよく分からない、ただ忍び難きを忍び、耐えがたきを耐えということだけははっきりと聞こえた。まもなく無条件降伏と知った。いったいどうしたらよいのか、内地に帰りたくともどうにもならぬ。若い看護婦をどうするか、これは私(院長)にとっては重大な責任であり、相談の結果最後まで病院を離れないようにしようと全従業員に話した。その夜は全員武装して近くの劇場へ集まった。

 再び荘園があらされ、その時病院の職員の1人(レントゲン技師)が病院の領地内(と言っても元は満洲人を追い出して得たものだが〉の農園で襲われ猿轡をはめられて常備壕で発見された。その後も著者(N院長)自らも大男に組みつかれたりと大変危険な状態であったようだ。吉林市内にはソ連兵も現れ始めたため、病院にいる15名の若い看護婦達はひとりでも頼れる男性を見つけて結婚するのが安心と考えて、この頃数組が院長も知らない間にばたばたと結婚していたという。もちろん式など挙げていない。8月20日ごろになると状態はさらに悪化し、日本刀、ピストル、猟銃などの凶器を持っているものは警察まで持参するべしとされた。やがて、ソ連兵が来て略奪をしてみたり、日本人の無抵抗をいいことに悪い奴が出没してきた。銀行の預金も突然の銀行閉鎖にあい、食物を得るには衣類など(特に婦人物)が満人には圧倒的人気があり、食料品と衣類の物々交換が始まったのである。

世界遺産に登録された広島原爆ドーム(著者描く)
世界遺産に登録された広島原爆ドーム(著者描く)

【京都保険医新聞第2647号_2008年7月14日_4面】

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