政治における「政治家」個人の役割と限界 鳩山由紀夫論の試み
昨年夏、総選挙で民主党が大勝、民主党政権が誕生し、政治もくらしも新しい1歩を踏み出しました。そんな新しい政治状況を前にして、私たちのくらしを大きく左右する政治の問題を少し系統的に考えようと、「渡辺治の政治学入門」と題した連載講座を始めます。
この講座では、現在進行中の政治状況そのものというより、政治というものがどんな力で動いているのか、また日本の政治はどこへ向かっていくのか、などについて考えてみたいと思います。読者のみなさんには、連載を通じて、個々の政治問題の結論もさることながら、新聞やテレビで起こる毎日の情報からどういうふうに自分で政治状況を分析するか、その力を身につけていただければ、と願っています。
初回は、政治における「政治家」個人の役割について考えてみましょう。いったい、政治を動かすのに、個人にはどんな役割があるのでしょうか。自民党政権の利益誘導型政治全盛の時代には、首相は誰がやっても変わらないと言われました。そういうことは何も自民党政権華やかな時代には限りません。いつの時代でも、政治は政治家個人の意欲のとおりには動きませんし、政治家が志向したことが実現するか失敗するかは、政治家個人の能力とも関係なく、時々の政治構造と力関係の下で決まることがしばしばです。たとえば、1982年に首相となった中曽根康弘は、自民党きっての改憲派でしたが、改憲消極時代に首相となって、改憲を提起できなかっただけでなく、有事法制ほかの大国化の課題はことごとく実現できませんでした。
しかし、政治が大きく動く時代には、どんな意欲をもった政治家が登場するかで政治は大きく左右されます。時の支配階級の切実な要請を体したり、逆に国民の声を体したりした政治家が登場し、大きな役割を果たすことがあります。
鳩山由紀夫はそんな1人と言えます。彼が民主党代表になったのには、小沢一郎の献金疑惑による辞任という偶然と幸運が作用していました。しかし、鳩山は、初の民主党政権の抱えた課題の達成という点では、ほかの政治家に比べて、極めて時代の要請にあっていました。
民主党の大勝と民主党政権の成立は、小泉政権が推進した構造改革と、アメリカ追随の自衛隊派兵、改憲に対する国民の怒りが爆発し、自公政権を押し流した結果でした。構造改革の矛盾の顕在化に最初に対応したのは小沢一郎でした。彼は、07参院選に際して、それまで自民党と構造改革を競い合っていた民主党の方針を急転換し、「国民の生活が第一」というスローガンを掲げて、構造改革に怒りをもつ国民、とりわけ構造改革で打撃を受け自民党離れを起こしていた地方の農家や地場産業層の票を獲得したのです。鳩山は、さらにそれを一段と加速しました。反貧困・反構造改革運動の盛り上がりを受けて、子ども手当、高校授業料無償化だけでなく、後期高齢者医療制度廃止、労働者派遣法抜本改正にまで踏み込みました。また普天間基地問題では「国外移転、最低でも県外」を掲げ、沖縄県民の期待を一手に集めました。民主党きっての改憲論者であるにもかかわらず、改憲論も封印しました。
鳩山の個性は、岡田克也や菅直人らと比べても、支配階級としての自覚が薄い点にあります。だから鳩山は、国民の期待に応えようと、さしたる自覚もないままに保守政党の枠―すなわち構造改革と日米同盟の枠を踏み破り、民主党への熱狂を生んだのです。
こうした反構造改革への期待を受けて、民主党政権が誕生しました。ところが、これに焦った財界やアメリカは猛烈な圧力をかけてきました。もし首相が岡田や菅であればおそらくかんたんに普天間基地の「国外移転」は放棄され、早々に「辺野古で仕方なし」に戻っていたことは間違いない。ところが、ここでも鳩山の個性が発揮されました。鳩山は、他の政治家に比べて、人一倍、自分がいかなる期待と力を得て、政権を担えたかを自覚していました。沖縄県民の期待も、他の政治家以上に気にしたのです。
こうした政治家には、国民の声、運動の力はことのほか影響を与えます。こんな鳩山にとって大きな圧力がかかりました。11月4日、「琉球新報」と「毎日新聞」共同の県民世論調査で、辺野古移転反対は67%に上りました。11月8日には、95年以来の大集会がもたれ、名護市長選では、確執を超えて、移転反対で市長候補の統一が実現しました。こうした圧力を受けて、鳩山は年内決着を引き延ばしたのです。その後も、徳之島の1万5000名集会、4.25沖縄県民大会と圧力は続き、鳩山は動揺、ジグザグを繰り返します。
福祉問題でも同様です。運動の力がなければダメでしたが、運動や声を「真摯に」受け止める鳩山でなければ、「福祉バラマキで財政は破綻する」という攻撃の強まる中で、子ども手当支給などマニフェストの見直しに早々に踏み込んだのではないでしょうか。こうした鳩山だったからこそ、普天間をここまで引きずり、福祉関係マニフェストはここまで実現したのでしょう。
しかし、その鳩山も、日米同盟の見直しに踏み込むことはまったく考慮の中になく、また構造改革に代わる政治を構想することもできていませんから、結局悩みながら「普天間は辺野古に」という決着に行かざるを得ませんでした。それが彼の限界であり、民主党政権そのものの限界です。
当然のことながら、裏切られた沖縄県民の怒りは、このままでは選挙を戦えないという議員の不安をかき立て、鳩山の首を飛ばしました。しかし、事態は看板のすげ替えでは変わりません。首相が誰になるにせよ、今後の民主党の首相は、鳩山のように、一時的にせよ保守の枠を逸脱することは許されない、いっそう忠実に構造改革と日米同盟の枠の中から出られない首相になることは間違いありません。
鳩山と民主党政権の限界を超えて、政治を第2歩に推し進めるのは、国民の声と運動の力以外にはありません。
クレスコ編集委員会・全日本教職員組合編集
月刊『クレスコ』7月号より転載(大月書店発行)