憲法を考えるために(50)  PDF

憲法を考えるために(50)

70年、そして8年

 戦後70年、そしてこのコラムを書き始めて8年。現政権下で情勢は大きく変化し、第1回を書いた頃に比し、憲法を取り巻く状況は本当に厳しくなってきた。この記事は新聞原稿であり今日(9月7日)が締め切りだが、参議院で審議中の安保法制は本号が発行されるときには、おそらく国会における決着がついているだろう。安保法制=戦争法案(この命名は社民党・福島みずほ議員、その本質を突いた命名は政権側を慌てさせ、国会での発言を削除しようとしたが、失敗に終わっている)について、系統的にその問題点を指摘・批判するにはこのコラムは余りにも短いので(筆者の能力は棚に上げてだが)、思いつくままの1、2を。そして、もしもこの戦争法案が国会で成立したとしても、平和を守る戦いは終わったわけではない。法案の具体化・運用への批判と阻止、この戦争法案を「お試し改憲」にさせない、改憲に結びつけさせない運動こそが大切になる(戦争法案はなぜ改憲しようとするのか、その意図を我々に知らせる一面を持っている)。

 核抑止論、核廃絶への国際的な運動では、核保有・非保有の不平等から、(テロも視野に)核を保有するより核を廃絶する方が安全が高まるとの認識を経て、それは安全保障の問題から、人道上の問題へ大きくシフトしているが、その中で核抑止論はその正当性を失いつつある。

 抑止論は「こら、ごたごた言うたら、いてもたるぞ」(やくざにこういわれると確かに怖い)がその本質であり、最終的手段は核でしかないが、最近の知見では、その使用は自国にも壊滅的な被害を及ぼしてしまうと予測されている(沖縄・海兵隊など抑止力になり得ない)。中国脅威論、中国が日本を軍事攻撃してきたら(その想定自体が平和を脅かすが)、私は軍事的防衛より市民的防衛と思うものだが、よしんば前者だとしても、それは個別的自衛権の問題であり、戦争法案の目指す集団的自衛権の問題ではない。また大国・アメリカとパートナーシップを組むのはよいとして、シニアパートナーどころか、ジュニアパートナー、さらにはまるで独立国かと疑いたくなるようなパートナーはもはやパートナーではない。

 自国の主権者・国会を軽視し、立憲主義をないがしろにし、多くの市民が違憲と考える法案を、ただひたすら数の力を民主主義といいたて押しつけるなど、将来にわたってこれを認めるわけにはいかない。(理事・飯田哲夫)

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