憲法を考えるために(24)「国家と個人(2)」

憲法を考えるために(24)「国家と個人(2)」

 前回は13条「すべての国民は、個人として尊重される」について、国家と個人の関係においても個人の尊重が基本であり、それは(戦前の国家のためには個人の犠牲はやむを得ないを否定し)、個人のために国家はあるを社会の基本とすることを意味すると述べました。今回はそれと関連して、同質性と多様性ということについて述べたいと思います。

 誰でも気心の知れた友人達と一緒にいると、楽しいものです。同様に、同じ家族、地域、職場、同じ日本、民族、文化などは、なじみやすく、安心感を与えてくれます。しかし、この何らかの共通点を基盤とした同質性を重視すればするほど、違う家族〜違う国籍・民族・文化などと、自分と他者という壁、溝がどうしても生じることになり、それは他者への差別や他者の排除につながる危険性をはらんでいます。

 これにつながる問題として、最近(テレビなどを通じて)、多数派の側からの少数派への排除とも云うべき執拗な攻撃−多くの人と異なる意見を持つ人、問題を抱えている人、事件に巻き込まれた人などに対する、非国民、非常識、自己責任(支援など不必要)などと、言葉の暴力ともいうべきもの(時には具体的な暴力すら)が多く見られるようになったのではないかと思います。

 一方、現憲法(特にその前文において)は、先に述べた壁・溝を出来るだけとりのぞいた、言葉を代えれば、多様性を認める社会を目指していると言われています。前回、個人の尊重には「人は皆同じ」(人の持つ特性・属性は違っても、それに関わりなく同じ人として尊重される)と、「人は皆違う」(人の持つ特性・属性はさまざまであり、その違いは人として尊重される)の2つがあると述べました。そして多様性を認めるということは、自己と他者に表れる特性・属性の違いにもかかわらず、その両者に共通点があることに双方が気づき、認めあうことがその基盤にあるのではないでしょうか。そして人が持つ特性・属性には、先に述べた家族、地域、職場、国籍、民族、文化・宗教、さらには性別・年齢・貧富・障害のあるなしなどさまざまなものがあります。そしてその各々が包含するものの概念の広がりに応じて、直感的に理解できる家族、地域などから、次第に抽象度が高まり、そのなかにある共通性を認識するのに努力を要する民族、文化などまで、段階状にならんでいると思います。そして現憲法は世界の憲法が共通性を認識するレベルが国家に留まっているのに対して、より広い人類のレベルでの認識に立っています。

 日本民族、日本の伝統などを尊重、愛しなさいと憲法(教育など)で強調するのは、先に述べた同質性の問題へ後退し、世界に誇る多様性尊重を失うことになるのではないでしょうか。

(政策部会理事・飯田哲夫)

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