憲法を考えるために(22)「国家と個人(1)」
憲法13条−「すべての国民は、個人として尊重される」。
このもっとも身近な例は、結婚にかかわる憲法24条2項−「家族に関する事項は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚」(要約)にみられます。いうまでもなくこれは、憲法が保障する基本的人権の本質である「個人の尊重(=個人の尊厳)」と「平等」を具体的に示したものに他なりません。
そしてこの結婚にかかわる家と個人との関係における個人の尊重は、戦前の家のためには、個人(特に女性)が犠牲になることが当然であり、美徳であるという社会の価値観を否定し、個人の(幸福の)ために家はあると、その価値観を逆転しています。そしてその基礎となっている憲法13条から同じように、国家と個人の関係においても個人の尊重が基本であることが明らかです。ここでも戦前の国家のためには、個人が犠牲になることが当然であり、美徳であるという社会の価値観を否定し、個人のために国家はあると、その価値観を逆転しています。
このことは、なにも日本国憲法に特有ではなく、立憲主義に基づく近代の憲法に共通したものです。もちろん人は完全でも全能でもありませんが、しかし現実にはその人間が権力を行使せざるを得ず、それゆえに権力は過ちを犯し得るという認識に立ち、国家の権力を制限し、国民の人権(個人の尊重・平等など)を保障するのが、憲法の持つ本質的な働きといえます。
(以下は伊藤真氏の憲法手習い塾で学んだことですが)個人の尊重には「人は皆違う」と「人は皆同じ」の2つがあります。これは一人ひとりの人が持つ特性・属性(性別・年齢・障害のある人ない人・貧富・宗教・民族・国籍などなど)は千差万別であるが、そうであったとしても、それにかかわりなく、人は人として存在する(ただそれ)だけで、すべての人が全く同じように、個人として尊重されるということを意味しています。
さてここまで述べてきた、憲法の本質にかかわる「個人の尊重」は、古今東西の貴重な血がながされて得られたものであり、今なお古今東西にあまねく定着し、揺らぐことのない普遍的価値観として、すべての人に共有されているとはまだいえないと思います。だからこそ、その価値を理解し、それを維持することが(自分自身のためにも)大切だと思います。これにかかわる身近な例として、犯罪者の人権とその被害者の人権(対立させるのは間違いだと思います)という問題を、一度考えてみていただければ幸いです。−次回へ続く−
(政策部会理事・飯田哲夫)