忘れ得ぬ症例 神の子  PDF

忘れ得ぬ症例 神の子

 
種田征四郎(下京東部)
 
 次の世代を作り育てるという行為は、生物に与えられた至上命令であります。そのときに人間の場合、お互いの愛の中で次世代は作られていきます。
 今から十数年前のことです。あるカップルの物語です。お互いの信頼関係の中で普通に愛を育んでいました。ところが、女性が交通事故に遭遇してしまいました。瀕死の重傷を負ってしまい、それから数カ月間意識消失の状態が続き、生命の危機も数度。幸いにして持ち直し、しかし、意識回復後も全身の麻痺が残り約1年間にわたるリハビリテーションが続けられました。リハビリ後も精神的、肉体的に大きなハンディキャップが存在して、以前の彼女とは比べようがないほどでした。
 世の中に心の大きい人間がいるものですね。半身麻痺が残り歩行も不自然な彼女を、1年半も待って、彼は今までと同じに、あるいは、それ以上に温かく受け入れてくれました。結婚式は遅れたけれど、予定通り結婚すると。そんなときに産婦人科医である私は相談を受けました。事故以来まったく月経が来ない。検査しますと、脳下垂体性の性腺刺激ホルモンが非常に低く、卵巣ホルモンも低い。数カ月間意識がなかったことから判断されるように、視床下部—脳下垂体系がダメージを受けて、卵巣が廃絶に近く、まったく働いていないことによる無月経でした。長い間待ってくれた彼の子をどうしても生みたいという彼女の切なる願い。半身麻痺が残っている上に強い下垂体性の無月経。難しいな。
 そこで、リハビリを続けた上で、目鼻がついたら排卵誘発剤で卵巣を刺激し排卵させて妊娠を期待しましょうということにいたしました。
 その間、月経だけは来るようにホルモン療法をしていましたら、まったく予想もできないことに自然排卵、妊娠してしまいました。詳しくは省きますが、妊娠経過もまずまずで分娩も自然に出産できました。半年以上にわたる高度の脳障害のあと、2年近い無月経、特別な不妊治療もしないのに妊娠、全くの普通分娩。リプロダクションへの巧みな自然の大きな援助があったと思わざるをえません。
 立会い分娩の場で、2年も3年も、長い間待ってくれた夫に、そしてご本人にも、私は感動のあまり、これは愛が産んだ、奇跡ですよ。この子は神の子に違いないと、叫んでしまいました。この言葉をずいぶんと気に入って下さったと見えて、その後、児の検診に連れてみえるたびにうれしそうに「神の子を見て下さい」といわれました。たまたま街中でお会いしたときも大きな声で「先生、神の子でーす」と呼ばれました。
 たまたまのめぐり合わせでしょうが、愛の育みの中で再生産が非常にうまくいって感動したことを思い出します。

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