忘れてはならない戦争体験 戦後70年を迎えて  PDF

忘れてはならない戦争体験 戦後70年を迎えて

林戸 博(伏見)

 一連の戦争の切っ掛けとなった奉天での張作霖爆殺事件があった昭和3年に、私は生まれました。幼少時はまだ平和な楽しい日々を過ごしていました。わずかに満州国皇帝溥儀氏来日時の熱狂的な歓迎や、南京陥落を祝った提灯行列などを記憶しております。

 日中戦争が次第に泥沼化した昭和13年、14年頃になりますと小学校高学年になった私は、出征兵士を見送ったり、戦死者の遺骨をお迎えする回数が次第に多くなりました。一方学校では「天皇は現人神であり私たちは神の子である」と教えられ、小学生も体を鍛えいずれお国の為に御奉公するのだと言われ続けました。

 昭和16年中学校入学。この年から中学生はこれまでの丸帽から戦闘帽に変わり、脚にはゲートルを巻き完全な兵隊スタイルになり、この年12月8日太平洋戦争が始まりました。この日のことを「国民は皆歓喜に沸いた。胸のつかえがおりた」といった感想も語られていますが、私はもちろん昂揚した気持ちはありましたが、あの巨大なアメリカとどう戦うのかと不安な気持ちがよぎったのを覚えています。その頃より学校では軍事教練が一段と厳しくなり軍人勅諭は全文暗誦しました。12月8日の大詔奉載日に因んで毎月8日は米飯の真ん中に梅干1個が入った「日の丸弁当」の持参が義務づけられました。

 昭和18年、山本五十六大将の戦死の頃を境に日本軍は次第に劣勢となり、翌19年にはいよいよ戦局が厳しさを増してきました。級友のなかにも少年兵を志願する者も出てきました。中学4年になった私たちは、働き手を軍隊にとられた軍需工場の予備軍として動員されました。この年動員された中学および女学生は全国で300万人といわれています。幸い私の動員先は市内の工場でしたが、京三中(現山城高)は愛知県にある中島飛行機半田工場に動員されました。同年12月7日に起こった東南海地震で13人の三中生が圧死しました。この日を祈念して70年を経た今でも同窓生が追悼の集いをしています。

 昭和20年に入りますと、日本の各都市は次々と空襲をうけました。3月13日大阪が爆撃をうけた時、京都市内は黒い雨が降りました。何がおこったのかと訝っていたところ、大阪から命からがら逃げ帰った知人が、大阪は焼野原になり死体が散乱していると告げられ絶句しました。被害の大きかった京橋辺は戦前は陸軍砲兵工廠があり昭和30年頃まではまだ瓦礫が山積みになったままでした。現在は大阪城公園や高層ビルが建ちならんでいます。

 その頃私の父は耳鼻科の開業医で外来、入院、手術などで多忙を極め、それまで応援にきていただいていた若い先生方が次々と応召され孤軍奮闘の毎日でした。その上、町内の防空訓練にも駆り出され疲労が積み重なっていたのか肺炎にかかり、たった10日床に臥しただけであっけなく他界しました。当時は霊柩車もなく町内の人々がお棺をかつぎ葬列をくんで、その頃高瀬川沿いにあった市南部の小さな火葬場まで歩きました。この日はもう春というのに雪が舞い、お棺や葬列の人々の頭上を白く覆いました。

 5月に入るとドイツ降伏、米軍沖縄上陸、8月6日広島、9日長崎に原爆が投下され国民が信じていた神風も吹かず、15日、日本は無条件に降伏し戦争は終わったのです。

 この戦争で犠牲となった人は300万人、500万人ともいわれています。その他にも私の父のような人や栄養失調で亡くなった人等、多くの人々がこの戦争で犠牲になったと思います。

 何時の時代でも如何なる国であっても戦いで悲惨な目にあうのは、私達民衆であることを思い知らされた戦争でした。

(『核兵器廃絶京都医師の会ニュース』第43号より転載。一部、加筆・修正)

ページの先頭へ