広場/民主主義の本質
政治、経済、政策、立法、文化、芸術、学問、芸能などすべての活動において、中心にすえるべきは人間性である。人間性とはヒューマニティーhumanityであり、人格であり、個性であり、その人が他者ではなくその人自身であるというアイデンティティーであり、人間の尊厳であり、最も尊重されるべきものである。この人間性は、すべての人に普遍的universalに存在するものであるから、自分の人間性とともに、他者のそれも尊重しなければならない。この世の中に、人間性以上に大切なものは存在しない。
三権分立の政治システムでは、三権はお互いを牽制し合うことで、それぞれが独断的になることを防いでいる。しかし各権力の行動規範は、各々の個別事情ではなく、人間性の尊厳を基にして決められるべきである。すなわち、人間の尊厳を最も高度に発現させるという目的のために、三権は各自の行動を起こすべきである。
司法の現場においては、そもそも法は、相矛盾した内容を包括している。ある条文の内容と、別の条文の内容がくい違うということは当たり前に存在する。それは人間性というものが、多種多様で、変幻自在で、無限性を内包しているため、それを文章で規定することが不可能であるからである。したがって、法体系というものは、人間性の周辺をさまようことはできても、核心に触れることはできない。つまり、法は人間を規定することができないということである。これを言い換えるならば、人間の上に法があるのではなく、人間の下に法があるということである。
最近、憲法学者が意見を述べているが、彼らは法の知識は詳しいが、微細な枝葉末節に詳しくなればなるほど、全体を見失ってしまう。すなわち、法体系のうしろに存在する人間性を見失うということである。たとえば、フランスの思想家ボルテールは、「私は、君の意見には反対だが、君がそう発言する権利は命をかけても守る」と言ったが、ひとけのない街はずれで、暴漢に出くわしたような場合、ボルテールの崇高な理念はどれほどの意味を持つのであろうか。おそらくその時の一番正しい行動は、「すぐ逃げろ」であろう。
法を守るために、人間は生きているのではない。人間の尊厳を守るために、法が存在するのである。もう一度言うが、人間の上に法をもってきてはいけない。人間性よりも尊いものはない。
この解釈に従うならば、憲法は国家権力を抑制するものであると定義づけるのは、正しくない。同様に、憲法は国家権力の行使を後押しするものであると定義づけるのも正しくない。しかし、どちらも、ある程度は正しい。憲法は、人間性を最も効率よく発現させるためにあるという定義が、おそらく最も正しい。しかし、この人間性というものの正体の、なんと魅惑的で、神秘に満ちていることか。このつかみどころのないもの。従って、憲法学者を簡単に責めることはできない。同様に、行政者や立法者も責めることはできない。彼らは発展途上にあるのである。そしてまた、日本国民もみな発展途上である。発展途上の国民が、発展途上の政治家を選び、無限のかなたに輝く人間性の実現をめざして、永遠に悪戦苦闘する。これが民主主義の本質であろう。
(西陣・辻 俊明)