大本巌氏にきく「シベリア抑留」回想録  PDF

特集2 大本巌氏にきく「シベリア抑留」回想録

 終戦時にシベリアへ抑留された経験を持つ大本巌氏(東山)。薄れゆく戦争の記憶を後世に引き継ぐべく、当時の状況や思いをお聞きした。聞き手はご子息の大本一夫氏と垣田さち子理事長。

■軍医学校から択捉赴任まで

 垣田 先生が京都大学を卒業されたのはいつですか。

 大本巌 昭和19年9月です。航空医学がやりたくて耳鼻科を専攻していました。卒業の少し前、専門教育は軍でやることになり、7月7日、私たち依託生は、東京の牛込の若松町にあった陸軍軍医学校に放り込まれました。軍医学校では銃などは持たされずに、とにかく勉強ばかりの毎日でした。

 卒業式は出身校では行われず、学生が所属する各大学の人が卒業証書を携え、陸軍、海軍各軍医学校にやって来ました。この卒業式は実に簡素なもので、証書が渡されただけです。渡されると軍医学校の教官が「はい、これで終わり。今から授業を始めます」という感じでした(笑)。

 出身校卒業後すぐ、私は宮崎県都城にある陸軍第6師団第23連隊に見習士官として赴任することになりました。見習士官はまだ資格がなく、将校(少尉)として正式任官となるのはその年の12月です。

 第6師団は熊本・大分・宮崎・鹿児島の九州南部出身の兵隊で編成され衛戍地を熊本とする師団です。

 大本一夫 第6師団は日本軍の中でいちばん強いといわれていた師団ですよね。

 垣田 私の父も第6師団なので、そう聞いています。

 一夫 強いことで有名なので、戦場でも相手がこちらの軍服の所属師団を示す番号を見ると、逃げ出したんですよね。第6師団には気をつけろって。

  逆に、京都の第16師団だとわかれば相手は攻めてくるんです(笑)。弱いことで知られていました。京都の師団の歩兵9連隊などは「勲章くれんたい」、大阪の8連隊は、「また負けたか8連隊」などとぼろくそでした(笑)。

 一夫 都城の連隊はどのくらいの期間でしたか?

  2カ月ほどです。昭和19年12月に任官して、年末にはまた東京に戻されています。そこからようやく陸軍軍医学校の学生としての正規の教育が始まるのです。ここでもまた毎日勉強漬けで、20年5月末に卒業するまで続きましたね。

 垣田 ということはこの年3月の東京大空襲にも遭っているわけですね。

  あのときは野戦病院が編成されて、私たち学生も救援に行きました。本当に気の毒な状況でしたね。私たちは戦況が悪化していた時期まで勉強の場を与えられていたことになり、大事にされすぎていたのかもしれません。危ない目に遭う機会も少なかった。

 軍医学校の卒業式は大学のときとは違って立派でした。天皇陛下の名代として韓国の王族の皇太子も臨席されました。式が終わると大臣や将官らも加わって宴会も行われました。ところが、宴会が終わるとすぐに乾パンと旅費が支給され、さあ今から任地へ行けと送り出されたのです。

 私は北部軍に配属され、しばらくは札幌の軍司令部に勤務し、その後択捉島の独立歩兵大隊付に赴任することになりました。

 択捉へは単身で行くことになります。任地までの輸送船などは全部自分で手配しなければなりませんでした。択捉に着くまでに敵の潜水艦に沈められないよう、兵站司令部と相談して、根室の港で小さなポンポン船を見つけそれで向かうことにしました。はじめに根室から色丹島に渡り、そこで夜が来るのを待ち、そこから択捉の単冠(ひとかっぷ)湾の天寧(てんねい)の港に向かったのです。

 ただ同時に赴任する同期が4人いましたので、2人ずつ2組に分かれてチャーターしました。赴任は確かもう6月になっていたと思います。

 一夫 6月…。あと2カ月で終戦だったんだ。

■軍医学校で学んだこと

 垣田 陸軍軍医学校では勉強ばかりしていたということでしたが、どんな勉強だったんですか。

  勉強の第一は戦術でした。将来の司令部を担うことを前提とした教育です。教官として教えに来た人の中には、陸軍大学校の教授、大佐クラスの人と、大本営の参謀もいましたね。軍医学校の校長は井深健次です。医師ですが、詳しい経歴は知りません。

 一夫 戦術以外にどんな勉強があったんですか。

  衛生戦術です。戦闘のときに野戦病院、兵站病院をどこに置くかとか、軍医などの衛生部隊、担架部隊をどう配置するかという勉強です。 

 軍医学校でのもう一つ重要な勉強はというと、伝染病、細菌に関する勉強でした。これは731部隊のような細菌戦をするための勉強ではありません。予防のための細菌の実習です。赤痢、パラチフス、チフス、コレラを培養器からつくって研究しました。マラリアについては蚊の解剖を行いました。

 垣田一夫 蚊の解剖?(笑)

  この他、兵隊の健康を保持するための衛生学に関する勉強もありました。その中に、毒ガス攻撃を受けたときにどう守るかという教育もありました。ただし、こちらが毒ガス攻撃をするときのことは教わりませんでした。

 あの時代、陸軍も海軍もペニシリンを持っていたんです。中将クラスが院長を務める陸軍病院、海軍病院にはありました。ですから、私たちは軍医学校でペニシリンの使い方を習っています。

 一夫 731部隊の石井四郎さんには習わなかったんですか。

  あの人も京大出身でしたので、同窓会では会ったことがあります。我々には「勉強せえ」とばかり言っていました。

 垣田 軍医学校では医師としての教育というより、むしろ軍隊の幹部になるための教育がなされていたということですね。

  もちろん軍陣医学として授業もありますよ。当時千葉に演習場があり、犬を連れてきて手術の練習などを行いました。

 また、最後には千葉の松戸にある工兵学校に行き、陣地を築く築城術の基本も教わりました。

■択捉・天寧での終戦

 垣田 択捉の天寧に渡り、北部軍に合流してからは?

  私は独立歩兵大隊付で、私の同級生3人のうち、1人は師団司令部付、あとの2人は衛生隊の病院付でした。

 私の部隊はいちばん食事の良い部隊でした。札幌の司令部はそのことをわかっていますから、お偉い人がよく視察に来ていましたが、昼飯は我々の部隊で食べることになっていました。

 部隊の兵隊の構成は北海道出身者が3分の1、東北出身が3分の1、大阪出身者が3分の1でした。秋田出身者の中には酒造りができる者がおり、酒を造っていました。部隊には米がたくさんあり過ぎるんです。軍は北千島に食糧を運ぼうとするのですが、敵の潜水艦に狙われて天寧に逃げ帰ってくることがたびたびでした。それで彼らは北千島に運ぶのを断念して、食糧だけ我々の大隊に置いて帰っていくのです。食糧だけでなく、弾薬などもみんな置いていきました。司令部から視察に来た人はお土産までもらって帰っていきました。

 垣田 公の記録には残らない話ですね(笑)。

  ここで終戦を迎えることになるのですが、それまでは部隊で診療行為を行っていました。同時に兵隊の教育、薬剤をどう処理するか、戦闘が始まったとき患者をどこに移すかなど計画を作るのも私の仕事となりました。私の上には3人の軍医がいましたが、当時そういった教育を受けた軍医はほとんどおらず、私の部隊の計画がいちばん優れていたようです。隣の部隊の作戦計画まで、私が作ることにもなりました。

 垣田 部隊には何人いたんですか。また、先生も戦闘に参加するということで行かれているんですね。ソ連軍が敵として想定されていたんですか。

  部隊にいたのは1000人ほど。敵はアメリカ軍です。

 一夫 まだ日ソ中立条約が破られていなかったから。ソ連は敵じゃなかったんですよね。

  近衛文麿さんがソ連を仲立ちにして終戦交渉をしようとしたくらいですから。当時はアメリカの攻撃を想定して太平洋に向かって防御を考えていたんです。

 垣田 1カ月、2カ月と経つと戦局はかなり怪しくなっていたでしょう。

  ええ。患者や薬剤を放り込む陣地まで自分で掘ってつくりました。兵隊はだいたい30歳代の年寄りが多かったのですが…。

 垣田 30歳代で年寄りですか(笑)。

  私はまだ20歳代ですから。私の方が体力があるものですから、木を切るのも私が上にあがり、彼らが下で切った木を受ける役でした。弾薬や食糧を輸送するときでも、自分がいちばん重い荷を持って、みんなに「ついてこい」と言っていました。

 一夫 まだ研修医にもなっていないような21、2歳の青年がね(笑)。

  終戦後、千島列島東端の占守島(しゅむしゅとう)ではソ連軍と激戦が行われることになります。千島は「鉄の要塞」といわれていましてね。終戦後に調べてわかったのですが、この戦闘で、ソ連軍は日本軍の何倍もの戦死者を出したそうです。この「鉄の要塞」があったから択捉は戦場にならず、我々の命も守られたのかもしれません。

 垣田 ソ連軍が敵になったことや終戦について先生が知ったのはいつですか。

  その8月18日の占守島の戦いからです。司令部としては8月8日にソ連が日ソ中立条約を破棄したことは知っていました。

 終戦は8月15日の前日、司令部から無線で連絡があり、明日天皇陛下の放送があるから聞くようにとの連絡を受けていました。私自身は4日前に敗戦を知っていました。アリューシャン列島の米軍によるラジオの日本語放送が入ってきていたからです。それを聞いて部隊長に報告すると、部隊長は他の将校には絶対言うなと言いました。私自身はその日から知っていましたので、覚悟をしました。

 垣田 では、15日の玉音放送も聞かれたんですね。

  聞きました。このときの正直な気持ちというのは、残念だという気持ちと、これで生きて帰れるというものでした。相反する気持ちが錯綜したのを覚えています。

■武装解除と捕虜生活の始まり

 一夫 武装解除をしたのはいつですか。

  8月28日。終戦になっていましたが、みんな武器を持っていました。

 垣田 15日の時点で部隊解散ということにはならなかったんですか。

  そこまではいかなかった。札幌の司令部からの指示で、上陸してきた軍と停戦しろということになっていました。

 司令部からの命令は全部無線で入ってきていて、我々はその通りに動いていました。命令にもとづき拳銃の弾の数までかぞえていました。

 垣田 玉音放送の天皇陛下のお言葉をみなさんどう受け止めていたんでしょう。

  あれを聞いてもはっきりしたことはわからなかったんです(笑)。

 垣田 まあ確かにこれからどうしろとは言っていませんものね。

  その後、択捉からの脱出が始まりました。入隊の古い順番にトラックに乗せて港に向かわせました。各船には参謀部の将校が1人乗り込み、あるだけの船に兵隊を乗せて択捉から逃げ出して行ったのです。船の行く先は北海道、青森、秋田とばらばらでした。

 8月28日に武装解除となり、兵隊は上陸していたソ連軍にすべての武器を差し出しました。ところが、ソ連兵は、将校が部隊を指揮するとき、軍刀がないとできないと考えていたようで、我々将校からは軍刀を取り上げることがありませんでした。その日のうちに私たちは船に乗せられてシベリアに向かうわけですが、乗船中だけは軍刀をソ連側に預け、降船時にまた返してもらいました。

■シベリアの収容所での戦い

 垣田 船に乗ったとき、本土に帰れると思ったのではなかったのでしょうか。

  そうです。北海道に行くと思って乗りました。降船する港に着いたとき、同乗した兵隊の中に北海道の留萌出身者がいましてね。彼が、「おい、留萌の港だ」と言うのです。ところが港にはソ連兵の姿が見えました。着いたのは北海道ではなく、ソ連のワニノという港だったのです。そこからその日のうちに鉄道に乗せられ、抑留地へ送られることになりました。

 一夫 反抗する兵隊はいなかったのですか?

  もちろんソ連軍と戦おうという連中もいましたが、すでに部隊長が弾薬の数までかぞえて抑えていますので、戦いようがなかったのです。武装解除したあとはなおさらです。

 私らはセルワトカという小さな駅で降ろされました。そこからさらに2くらい歩かされ、すでにでき上がっていた収容所に放り込まれました。そこでは鉄道の敷設工事をさせられました。収容所には医務室があり、そこは年配の軍医と私が詰めていました。同時に、将校として鉄道建設の指揮もさせられました。

 収容所では、下痢だろうとむかつきがあろうと、熱が38度以上ないと病人とは認められず、働かなければなりませんでした。これがソ連軍の見解でした。ですので、明日の作業ではだれを休ませるか、毎晩夜中までソ連側と言い争いをしなければなりませんでした。

 垣田 相手との交渉はロシア語ですか。

  ハルピン大学を出た優秀な通訳がついていました。私たち自身もロシア語を覚え、やり取りすることもありました。

 垣田 日本兵を捕虜として働かせていることについて、ソ連軍はどう説明していたのでしょう。

  説明は何もありません。もうしばらくしたら日本へ帰れるというだけでした。ずっとだましながら労働させていたということです。

 垣田 日本兵はその状況をどう理解していたんでしょう。戦争に負けたのだから仕方がないということでしょうか。

  結局、ソ連軍の言う通りにしろという命令を司令部からもらっていましたからね。それに従うしかありませんでした。

 たとえ戦争に負けても、軍隊が解散したわけではないと思っていましたから。

 朝になると作業のための靴と手袋の数の点検があります。ある朝、ソ連側が把握している作業人数と実際の数とが合わないことがありました。私の判断で作業を休ませていたからです。当然ソ連側は文句を言いますが、私があんな病人を作業に出せるかとがんばったら、ソ連側の兵士が「ドクター!」といって腕でバツ印を作るしぐさをしました。つまり営倉行きだということです。こういうことはしょっちゅうありましたね。収容所で営倉に入る数の記録保持者といえば、軍医でした。そのせいでしょうか、兵隊はみんな私たちに親切にしてくれました。

 垣田 そういう状況にあっては、兵隊にとっては軍医は命の綱ですものね。先生は何人くらいの患者を持っておられたんですか。

  300人くらいでしょうか。衛生兵は数人ついてくれていました。彼らはよくやってくれたので、ずいぶん助かりました。年齢はみんな私よりずっと上で、30歳代でしたがね(笑)。

 一夫 このセルワトカの収容所はどのくらいの期間だったんですか?

  半年くらいかな。そのあとムリーに行かされました。そこでは作業隊の隊長をしました。階級が生きていましたから、そういうことになったのです。

 シベリアの収容所では平均してひと冬で全体の1割が死んでいます。ところが私のいた収容所では、この冬に亡くなったのは3人だけでした。1人は腹膜炎、もう1人は肺炎でした。肺炎患者は動かせないほど重体だったのですが、収容所で死なれると自分たちの責任になると思ったソ連側が無理やり動かしたことが原因でした。

 最後の1人は栄養失調でした。この人は真面目な兵隊で、我慢して作業に出ていたんです。医務室に連れてこられたときはすでに危篤状態でした。この人が亡くなったときには涙が出ました。

 その兵隊の遺体は倉庫に運ばれベッドに寝かせ、近くで兵隊が埋葬までお守りをします。ランプの明かりのもとでお守りをしましたが、ランプが揺れると遺体の姿が浮かんだり消えたりして、気持の良いものではありませんでした。

 このことがあって以来、入浴する際に兵隊の体を見て痩せているものを片っ端からチェックしていきました。こういった兵隊の栄養状態をソ連につきつけると、半数近くが病院に入れられるか、軽い作業をする部署に換えてくれました。

■「処罰」でタタールの将校収容所へ

 まあ、そういうふうに営倉に入る記録保持者となったり、要求ばかりしていましたので、ソ連側からは私のことを言うことを聞かない将校とみていたんだと思います。

 今度はヨーロッパ・ロシア、タタールの山の中の将校収容所に入れられました。移動に40日かかりましたね。

 垣田 そんなに時間がかかったんですか。

  大きな町の駅に着くと、風呂に入ったり、川のそばでは洗濯をしたりしながらの移動でしたから。そのかわり、帰国するときは速かった。タタールからさらにモスクワ南東にあるマルシャンスクに移され、そこから帰ってきましたが、マルシャンスクからナホトカまでは25日でした。

 一夫 タタールへは他の日本兵も一緒につれていかれたんですか?

  私だけが他の日本兵と切り離されました。おそらくそれも処罰という意味合いだったんだろうと思います。タタールの収容所には日本兵だけでなく、ドイツやハンガリーの将校もいました。

 タタールの収容所には数カ月程度しかいませんでした。作業でキコリをやり、倒れてくる木にはね飛ばされて、切り株で体を打ち、足を骨折しました。仲間の肩を借りて、山の雪道数を帰りました。すぐに病院に行ったのですが、病院に着くなりひっくり返ってしまい、それから半年入院するハメになりました。

 当時ドイツ人患者はドイツの軍医が診て、日本人患者は日本の軍医が診ることになっていました。私の隣のベッドはドイツ人でしたが、私はドイツ語を話すことができませんし、辞書もありませんから、ドイツ語と、英語とロシア語のカタコトで会話をしていました。その患者を診ていたドイツ人軍医に、医学書を貸してやろうと言われ渡されたのが、クレンテルの『診断学』でした。この本は私もかつて大学で使っていたもので、嬉しかったですね。

 そこからマルシャンスクに移動しました。当時5万人くらいの町だったと思います。そこには日本、ドイツ、ハンガリーなどの捕虜1万人が集められていました。将校ばかりでした。

 おそらく防疫の関係だと思いますが、着いた当初は作業も何もありませんでした。その時期、日本語が流暢なドイツ人将校が私のところに毎晩のように遊びに来ていました。駐日大使館で勤務していたことがあり、京大で日本語を学んだそうです。だから「もしかしたら京大のキャンパスでお前たちとも会っていたかもしれない」と言っていました。「四条大橋の角にある『いづもや』のウナギが食いたい」とも言っていました(笑)。マルシャンスクには1年くらいおりました。

 一夫 すると、マルシャンスクにいた期間がいちばん長いということですね。でも何が幸いするかわからないですね。ソ連側に目をつけられて1人ここまで連れて来られたわけですが、実はヨーロッパ側の収容所はシベリアの収容所に比べて死亡率がかなり低かったんですから。

 垣田 気候がまだシベリアよりよかったからということですか。

  気候より、国際赤十字などの目が光っていたからです。捕虜が1万人もいるので、ソ連としてもおかしなことはできなかったんだと思います。

 そこには日本軍の軍医が60人ほどおり、名古屋大学を出た中佐が我々若い世代を大事にしてくれました。アッペなどの手術をしたあとは、臨床に長けた先輩たちがいろんなアドバイスをしてくれました。

 垣田 医師というのはどこへ行っても医師なんですね。ソ連としては日本の将校ばかりを集めて、いわゆる赤色教育をしようとしていたわけではなかったのですか。

  それはありましたね。民主運動といってね。でも、そういう教育の対象は将校ではなく、主に兵隊だったと思います。

 垣田 結局先生は何年抑留されていたんですか。

  私が日本に帰ってきたのは昭和23年6月です。ナホトカから引き上げ船が出ていました。

 垣田 マルシャンスクからナホトカに戻されるときは、日本への帰国が決まったことを知らされていたのですか。

  そうです。ところがナホトカに着くと、軍医だけがそこの医療施設で勤務させられました。そして、別の帰還兵が到着すると、またそこから軍医だけをピックアップして、入れ替わりに今度は私たちが帰国するというわけなんです。そこでは陸軍軍医学校の同期生3人と合流できました。彼らとは帰国するまでずっと一緒にいることができました。

 垣田 タタールの収容所以降は、比較的おだやかな生活だったようですね。

  まあ、そうですね。しかしそれまでがひどかった。向こう側の軍医と言い争いをしているときは、いっそここで相手を殺して自分も死のうかと思ったことが2回ほどありましたよ。

 でも、腹が立ってもう我慢できないというとき、不意に母の顔がパッと目に浮かんで「死ぬんじゃない」と言うのです。

 垣田 それで思い止まられたわけですね。ただ、将校ばかりタタールに集められた理由が少しわからないのですが。

 一夫 何か日本に関して、欲しい情報があったのでしょうか。

  そういうことではなかったと思う。というのはタタールではそういった類いの調査を受けたことがありませんでしたから。単に私のことが気に入らなかったんです。あるとき病院の医師がニヤッと笑い、「あんたの名前はよく聞いている」と言いました。どういうことか尋ねると、「これほど悪い将校はおらんと評判だ」って(笑)。

 垣田 でも部隊の人たちのことを思って言うことを聞かなかったのであり、平均10%の死亡率のところをごくわずかに抑えたわけですから、医師として見上げたものだという意味でもあったのではないでしょか。単純に、面倒なやつだからということではなかったと思います。お話をお聞きし、先生は医師としての仕事をされておられると感じましたよ。そのことは向こうも認めていたのではないかと思います。

■奇跡的に届いた日本からのはがき

 垣田 昭和23年6月にようやく帰国されたわけですが、到着したのはやはり舞鶴ですか。

  そうです。ナホトカの港からソ連の領海の外に出るまで、ソ連船があとをついてきましてね。何かあると船が引き戻されることもあったようです。ソ連の領海を出たときはホッとしましたね。

 私は3年弱抑留されたわけですが、ソ連のやり方は明らかにジュネーブ協定に違反していました。将校には作業させないというルールがあるのに、守られていませんでした。

 垣田 先生のご自宅は戦争の被害に遭われていたのですか。

  いや、特になく、みんな無事でした。ただソ連から帰ってきたということで、しばらくは刑事が近所に私のことを聞きに回っていたらしいです。

 垣田 抑留されていたとき、先生が今どこの収容所にいるかといったことは知らせることができていたんですか。

  当時捕虜郵便というものがありまして、それを使って母に往復はがきを2通出しました。カタカナで、生きて元気でやっているということだけを伝える文面です。

 京都は馬町が爆撃されたと聞いていましたので、はがきは滋賀のおじ宛に出し、それを母に届けてもらったのです。すると驚いたことに2通とも返事をもらうことができました。捕虜郵便では返事をもらえる人は数えるほどしかいなかったので、びっくりしました。1通はマルシャンスクで、もう1通はナホトカで受け取りました。

 垣田 そんな郵便もあったんですね…。

 まだまだお聞きしたいエピソードがたくさんありますが、また日を改めてうかがいたいと思います。

 今日は長時間ありがとうございました。


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