地域紹介シリーズ7 送り火と“北”  PDF

地域紹介シリーズ7 送り火と“北”

 地域紹介シリーズの第7回目は「北」。京都北医師会の加藤賀千雄・田中嘉人・鍵本伸二氏、オブザーバーとして垣田さち子協会副理事長(西陣)が加わり、「北」地区について語りあっていただいた。ゲストとして、五山送り火の一つ、北区西賀茂船山の「船形萬燈籠」保存会の会長でもある西方寺住職の川内哲淳氏から送り火について伺った。

送り火の始まりと西方寺

 川内 「送り火」はいつから始まったのか、歴史学の研究者などとお会いする機会があるごとに専門的な見解をお聞きしています。皆さんおっしゃるのは、京都は江戸時代になるとそれなりの記録が残っているが、それ以前の平安京当時の記録は残っていないのだそうです。ですので、いつ始まったのかはいまだにわかっていません。

 では、何を根拠に送り火の歴史を考えているかというと、貴族の日記や和歌の中に見られる記載から、推測していくわけです。大宮は、嵯峨野と並んで当時の貴族たちが好んでよく立ち寄られた土地なので、そういう史料に記述が見られます。

 私が住職を務めている西方寺はもとは天台宗のお寺でした。天台宗の開祖は伝教大師最澄ですが、第3世天台座主の慈覚大師円仁(794−864年)によって、847(承和14)年に開創されました。その後、1312−17年、今の出町柳駅の近くにある光福寺(干菜寺)の道空上人が、西方寺に当時住職がいなかった時期であったので、これを中興し、同時に浄土宗に改宗したのです。

 円仁は838(承和5)年、45歳の時、遣唐使で唐に渡っています。このとき同じ船で円行という人も渡っていました。この円行は帰国後、天皇の勅命で、船山の北側の奥に霊巌寺というお寺を建立しました。当時は北辰祭という北極星を祭る行事がありました。北極星というのは動かない不動の星、天皇も同じ不動の存在だということで、天皇および国家の安寧を願って北極星が信仰の対象とされました。霊巌寺は北極星を祭るお寺として創設されたわけです。

 この霊巌寺について「今昔物語」にこんな文章が載っています。三条天皇が目の病を患い、その祈願のため霊巌寺に行かれた。途中、大きな岩を利用した岩門があり、その岩門の幅が狭くて通れなかった。すると、今でいう執事長クラスの人が、天皇が来られているのに通れないのはどういうことかと言って岩門を崩してしまったというのです。以来その祟りによって、お寺としての神通力がなくなった。それ以降衰退していったということです。

 船形萬燈籠の送り火が始まったのは、霊巌寺の衰退で北辰祭が営まれなくなった後のことだといわれています。三条天皇の在位は1011年から16年ですので、その後100年くらいかけて霊巌寺が衰退していったと考えると、送り火は1100年以前にはまだ行われていなかっただろうと推測されます。これは間違いないだろうと思います。

六斎念仏のこと

 川内 今日、「五山の送り火」といいますが、かつて一番多かったときには11の山で送り火が行われていました。現在は毎年五山で決まった時間に順に点火されていきますが、かつては、年によっては灯せない山もあったようです。送り火の形には、「巳」「一」「い」、竹の先に鈴がぶら下がった形といったものがあったようです。それらがどの山で行われたのかについても特定することができません。

 送り火はなぜ始められたのか。もともと火を使う行事は中国では盛んに行われていました。それが朝鮮半島から丹後に伝わり、火祭り的な行事は平安以前から各地で行われ、京都にも入ってきました。京都は四方を山で囲まれた立地ですので、斜面を利用するとよく見えるということになり、現在のような送り火の形が生み出されていったと考えられています。

 今でこそ各山には火床が作ってありますが、そうなるまでは松明を燃やしていました。昭和40年代後半から50年くらいまではそうだったようです。

 送り火が終わると、西方寺においては住職の読経、そして西方寺六斎念仏保存会員による六斎念仏が行われます。六斎念仏は市内各地にありますが、芸能六斎が多いようです。西方寺は念仏六斎で、金と太鼓とお経の一説を唱えるだけのシンプルなものです。六斎念仏というのは、月に6日間ある六斎日に唱えられる念仏のことです。六斎日には精進潔斎します。生臭いものは食べずに身を清めて健やかに過ごすと幸せがやって来るというわけです。

 先ほどご紹介した西方寺中興の住職である道空上人のお位牌が残っています。裏の記述を見ると、天皇の許しを得て、六斎念仏と送り火がすでに始められていることがわかります。

北区と朝廷との関係

 加藤 私たちが子どもの頃は、ここは田んぼばかりで本当に何もないところでした。養鶏所があるくらいでしたか。

 川内 たくさんありましたね。尺八池に遊びに行くときは養鶏所の中を通り抜けて行ったものです。私の子どもの頃の北区は、映画「トトロ」で描かれたのと同じような風景でした。映画には結核のサナトリウムが出てきますが、薬師山にもありましたしね。そこには近づいていけないと大人たちからは言われていましたが、友だちと一緒に近くで遊んだり、入院患者さんからものをもらったりしたこともあります。

 薬師山は薬師如来を祀っています。薬師如来は薬、当時でいうとお医者さんの象徴だったそうです。そこには薬草園があって朝廷に献上する薬草を作っていたということです。また、大宮小学校の分校に氷室分校がありました。この氷室という地名の由来もかつてここに御所に献上する氷の貯蔵所があったことからきているそうです。北区というのは皇室、朝廷との結びつきが強い土地柄であったといえるのではないかと思います。

 加藤 御土居によって洛中と洛外を分けるそうですが、御土居は秀吉が作ったものですね。それ以前には洛中・洛外の線引きはなかったのですか。 

 川内 平安時代にはすでに洛中・洛外という感覚があったと思います。ただはっきりしたものではなかったと思います。よく「北大路通より北は京都ではない」と言われたりします。鞍馬口通までがいわゆる「町」だったのです。

 田中 私が西賀茂に引っ越してきた昭和43年当時といえば、大宮小学校の横からゴルフ場に向かって出ている一本の道と、神光院さんの前の道しかありませんでした。賀茂川も御薗橋から北はたいへんなでこぼこ道でした。父は西賀茂で昭和48年に開業していますが、当時はタヌキも棲むようなところだったようです。

 加藤 そんなところで開業して患者さんは来られたのですか。

 田中 タヌキではなく、人間の患者さんが来られましたよ(笑)。でも人があまり住んでいないところでよくも開業したものだと言っていました。ところがその数年後にはものすごい勢いで開けていきました。西賀茂の医療問題の一つは、医院の所在地に偏りがあり、医院がない地域が広がってきているということかもしれません。

適度な開発の規模とスピード

 田中 西賀茂は開発されて住宅地が広がってきていますが、まだ空いている土地があります。父が開業した当初は西賀茂に移り住んでこられたのは若い方ばかりでした。そういう新しい住民と地元のお年寄りとで構成された地域でした。私は平成7年に戻り、医院を継いだのですが、その頃にはかつて若かった人はみんな、孫を持つ世代になっていました。しかし、代替わりしたり、空いている区画に若い人たちも入り続けており、まだまだ人が動いている地域ですね。

 川内 それはおそらく農地がまだ残っているからだと思います。農地は年々減っていますが、少しずつ宅地になり、新しい方が入ってこられているということだと思います。まだこの地域は過渡期にあるのでしょう。

 加藤 開発のスピードも規模もちょうど良いくらいなんでしょうね。

 川内 最近、西賀茂車庫から北側にかけて規制緩和されて家がどんどん建っています。また若い方が増えるかもしれませんね。

 加藤 小中学校も子どもでいっぱいですものね。市内で子どもの数が増えているという地域は珍しいのではないでしょうか。

送り火を維持することの難しさ

 川内 ところで船形の場合、送り火には檀家さんの長男しか参加することができません。檀家さんはもともと55軒ありましたが、今は少し減って52軒です。なぜ減ったかというと、長男がいない、つまり男の子が生まれなかった家があるからです。昔でしたら養子をもらうことができたのですが、今はなかなかそういうことも難しい。それで檀家は減ることになります。分家することはできます。ただし条件として一定規模以上の田畑を持つ農家でなければなりません。

 地域には、町入といって、武家でいう元服と同じような儀式があります。数え年の18歳になると一人前の男として認められ、また檀家の分家として認められることになります。町入のあとは自分の田畑だけでなく、昔でいうところの隣組、五人組の田畑も手伝わなければなりません。

 その日を境に周囲から一人前の男として扱われるというのは、本人にとっても誇らしいことですし、大人としての自覚もわいてくるのではないでしょうか。そういった檀家さんたちによって支えられてきたのが船形の送り火なのです。

 ところが最近は少子化で、養子も簡単にできませんし、また結婚しない娘さんもおられますので、頭を悩ましています。地域の行事に90歳近いおじいちゃんに出てきていただくこともあります。これではいけないので、何か策を考えないといけません。

大宮・西賀茂という土地柄

 田中 檀家も含めて宗教に対してみんなの考え方が変わってきている中では、今後お寺がどう生き残っていくかが問題ですね

 川内 ただ、そういう点ではこの大宮・西賀茂という土地柄は、まだまだ家というものを大事にされる面が強いと思います。家を大事にするということは人づきあいも大切にするということですね。

 田中 私のところに来る患者さんが言っておられました。家とは長男が継ぐものであり、長男はそのかわり、まつりごとを含め地域でのつきあいなどにかかる費用も全部払う。昔はこうして長男が家と家をつなぐ役割を負っていた。ところが今は相続でも兄弟姉妹平等に分割するということになっているので、従来の地域のつながりもなくなってきたと思う。こうおっしゃっています。

 加藤 税制によって地域を弱体化しているということですかね。

 川内 分家ならいいのですが、そうではなく相続で田畑だけを細かく分け与えていっては、農家としてはやっていけません。今は娘さんでも相続していかれますから、大変なんです。

 地域の人間関係、つながりということでいうと、船形の山には独自のシステムがあります。先ほど町入についてお話ししました。若者が町入すると18人からなる若中に入ります。この人たちが送り火の点火のとき割り木をもって上がって走り回ることになる人たちです。19番目から上の36人は中老と呼ばれます。この中老が若中を補佐します。そして55番目から上の方が年寄といってOBとなり、現役の職からは外れます。

 これは明確な制度です。いまだに崩れていません。養子に来られた人も年齢に関係なく一番下の若中からやってもらいます。

 昔は厳しかったのですが、今は上の者が下の者にえらそうなことを言うことはありません。しかし、こういった制度があることで、若い人が年長者に対して敬意を払う人間関係が作られています。下の者をいじめるのではなく、成長させていくために何が必要か考えて接していくという関係は、これからの日本に求められるのではないかと思います。

様変わりする送り方

 垣田 ところで、最近はお葬式もされなくなってきていますよね。「身内だけですませました」と通知だけを後になっていただくケースが増えています。以前では考えられないことですね。

 川内 一つの問題は葬儀業界の事情が関係していると思います。長男が代々家を継いでいる家ですと、祖父が亡くなったら父親が葬儀を出し、父親が亡くなったら自分が出し、自分が亡くなったら息子が出す、というふうに受け継がれていくものです。ところが独立した次男三男ですと、親の葬式に行っても自分は座っているだけで終わってしまうということもあります。そうなると自分の子どもたちにも教育する機会がありませんので、亡くなったとき、子どもたちはどうしていいかわからないわけです。お寺とのつながりもありませんし、菩提寺がどこか知らない人もいます。

 葬儀社さんも、「そういうことでしたら、出入りのお寺さんに頼んでおきます。葬儀も内輪でされたらどうですか」と勧めるようです。葬儀社間の価格競争も激しく、お客さんの取り合いをしていますから、ディスカウントをしていかないとやっていけない事情があるのです。それで昨今は安く行える家族葬というのが増えてきているのですね。

 田中 私の祖父が亡くなったときに葬式で、「小さい子はじいちゃんの枕元に行け」と言われたことをよく覚えています。後に研修医として患者さんの死に立ち合ったとき、指導していただいていた先生からこう言われました。「亡くなる人が自分の死をもって何かを伝える最期のときに患者の枕元に医師や看護婦がいてはいけない。足元に行くべきで、家族の方々に枕元にいてもらいなさい」と教えられました。祖父の葬式のときの記憶と、研修医時代に受けたそのことばが妙に重なり合いました。

 私は両親を自ら看取ったのですが、葬式の段取り、お寺との交渉は全部私の子どもに見せて、「次に私が死ぬときはお前たちがこれをやるんやで」と言いました。難しいことですが、亡くなり方、送り方というものをどこかで学ぶ機会があればいいかなと思いますね。

 川内 われわれもやるべきことはやっているのです。お通夜とかお彼岸のときなど、檀家さんにはそういったお話をするようにしています。おかげさまでうちは町のお寺からうらやましがられるくらい、檀家さんとのつきあいが強いといわれています。本当に親戚のような関係です。

 加藤 おそらくそれは京都市全体で見ると、例外的な関係でしょう。私たちの場合、お彼岸やお盆にお寺さんに行こうと子どもたちを誘っても、来ませんものね。今の話を聞いて少し反省しました。

 垣田 日本中から京都のお寺巡りや文化にひかれて大勢の方が来られますけれども、京都の生活実態は大きく変わっていますね。私たち自身は京都の文化の何を残せるのか、不安になります。

日本人の意識も変容

 田中 上京区の上七軒にある診療所にお手伝いに行っていたときのことです。その地域には若い人がほとんどいないという状況で、往診に行ってもおじいちゃんが一人で寝ている。他に誰もいないのです。外来でも人がほとんど来ない。またこの先、人が増える要素もない。しかしその点、北区にはまだ増える要素がありますね。

 鍵本 中心地が空洞化しているとよくいわれますが、かつて住んでいた人たちはどうして戻ってこないのでしょう。

 川内 戻さないといけないと思います。今、御池通界隈はものすごい数のマンションが乱立していますが、そういう形ではなく、町家を活用して若い人が帰ってきてもメリットを感じられるようなまちづくりが必要でしょう。やればできると思うんですがね。

 垣田 お寺さんが率先して出ていっているんじゃないですか(笑)。

 川内 今はそうでもないのですが、バブルの頃はひどかったですね。

 またお寺の移転は、墓地の問題がかかわっています。京都市は戦後新しい墓地の建設をいっさい認めていません。ただし、お寺がやむを得ない事情で移転する際は、お墓も一緒に移転してもよいということになっているのです。それで町中の土地を売却して、そのお金で郊外に行き境内地とともに墓地も広げるようにしたわけです。

 町中のお寺の場合、もともと近くに檀家さんはおられないことが多くて、駐車場がなくて不便だという声も強くありました。郊外に移れば駐車場も確保できるし、ドライブがてらお参りに行くこともできます。そういうことで郊外への移転については檀家さんも喜ばれた面があったのです。

 垣田 私の近所でもお寺が出ていき、そのあと地にマンションが建ちました。以前お墓のあった土地なのに、何ともないのかと思っていたのですが、不動産業界の考えは違うそうですね。

 川内 そうです。お墓は多くの人が手を合わせる場所ですので、いい念がこもっている場所と考えられているからなのです。

 田中 ところが、元墓地に家を建てるのはいいけれども、目の前にお墓があるのは嫌だという感情はありますね。

 川内 昔は好まれていたのですが、今は逆になっています。例えば葬儀場が近所にできるのは嫌だという声をよく聞きます。しかし、皆一生を終えると葬式を出してもらうわけで、最期のお別れをそういうふうに扱うことがよいことなのか、非常に疑問です。日本人の考え方も大きく変わってきているのだと思います。

 鍵本 私は京都には長くなく、聞くばかりでしたが勉強になりました。

 加藤 今日は医療の話には入っていけませんでしたが、こういった話の中からも医療の課題が見えてくるように思います。ありがとうございました。

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