地域紹介シリーズ9 東山古今  PDF

 

特集1 地域紹介シリーズ9 東山古今

 地域紹介シリーズ第9弾となる座談会を9月4日に協会で開催。出席者は、東山医師会から中嶋毅氏、宇佐晋一氏、松井昭男氏、大本巌氏、大本一夫氏。協会から垣田さち子理事長が参加した。また第1部では、考古学者・郷土史家でもある宇佐氏に東山の歴史と文化についてお話しいただいた。

第1部東山の歴史と文化

■古墳が示す東山

 宇佐 東山に隣接する区からは、いずれも縄文遺跡が発見されていますが、東山区からは今のところ出てきていません。弥生時代については、東福寺の境内から太型蛤刃石斧(ふとがたはまぐりばせきふ)が発見されています。また、今熊野には土器の散布地が見つかっていますので、将来、東山からも縄文や弥生の遺跡が見出される可能性は十分あるとみられています。

 次の古墳時代は東山からは全国的にもトップに躍り出る遺跡が発見されています。高台寺の東の高みにある八坂方墳(ほうふん)です。一辺が20mにもなる巨大なものを高い場所に築き上げることができたということから、農耕を基盤とする社会がこの地域に存在していた可能性があります。

 八坂方墳に並ぶものとして、八坂神社の東の山の頂上にある将軍塚があり、直経23mです。征夷大将軍・坂上田村麻呂との結びつきを指摘する説がありますが、実際には考えにくい説です。周辺には小規模の円墳(盛土の平面が円形)の群があります。考古学的には「古墳」とは断定されていませんが、周辺から発見されている古墳との関連を考えれば、私は将軍塚も古墳時代前期の終わり頃の古墳だとみています。

 すでに破壊された状態でしたが、今熊野総山町、今熊野南日吉町の東側から、横穴式石室が発見されています。また、六波羅蜜寺に阿古屋の塔と呼ばれる塔があります。阿古屋というのは人名です。これは石棺のふたを利用した祠です。これも古墳時代中期の遺物とみていいと思います。

 ただし、これらの古墳造営者の名前は明らかになっていません。飛鳥時代、仏教文化が百済から入ってきて、八坂馬養造という氏族が、平安時代にかけて八坂の家をずっと繁栄させます。研究が進めば今後古墳造営者とお寺をつなぐものがわかるようになるかもしれません。

■冥土と珍皇寺

 平安時代のはじめ、仁明天皇が崩御され、三十五日の法要が御陵に近い七つの寺で営まれました。そのうちの一つが鳥部寺寶皇寺です。仁明陵からいちばん遠いお寺です。寶皇寺の寶とは宝の旧字です。うかんむりの下の字は「珍しい」という字ですから、珍皇寺は寶皇寺の寶を珍と読み替えた呼び名だと考えられています。

 珍皇寺には、お盆の時期に大勢の人が自分たちの先祖である御精霊様をあの世から迎えるという信仰があります。このときお寺の鐘を引っ張って鳴らしますが、これを迎鐘といいます。ご先祖を迎える行事です。参道にはたくさんの店が並び、コウヤマキの小枝が束ねて売られています。これを買って家の井戸につるしました。先祖はこのコウヤマキに乗って帰ってくるという信仰です。

 冥界と現世とをつなぐ伝説は他にもいくつかあります。たとえば小野篁の伝説です。小野篁は平安時代前期の漢学者、歌人です。冥土と現世を行き来する能力を持ち、冥土では閻魔大王のもとで役人として仕事をしたといわれています。現世から冥土に通じる場所がこの珍皇寺であったといわれています。

■八坂神社の歴史

 先ほど来、八坂神社も清水寺も出てこない東山の歴史の話をしてきました。今日、八坂神社と呼んでいますが、平安初期は祇園感神院と呼ばれていました。それが明治になって、神仏分離、廃仏毀釈で分離され、八坂神社となりました。「祇園」という名が付けられていたことからもわかる通り、仏教的な施設です。

 祇園精舎という言葉をご承知でしょう。精舎とは僧院、修業する人が生活する場所です。祇園とは、お釈迦さんが説法を行ったインドのコーサラ国にある僧院の名に由来します。

 一方、祇園精舎の守護神は牛頭天王で、それが平安初期から厄除けの神として祇園御霊会として発展することになります。これが八坂神社のもとの形です。

 牛頭天王が姿を変えて蘇民将来に宿を乞うたところ、蘇民将来はこれに応じて泊めました。一方、弟の巨旦将来は泊めなかったので、一族は全滅させられてしまいました。その際、巨旦将来の妻になっていた蘇民将来の娘に茅の輪を付けさせ、それを目印にして娘以外の一族を全滅させたのです。これ以降自分は蘇民将来の子孫であると名乗れば、疫病を免れると言い伝えられるようになりました。牛頭天王はスサノオ尊と同一視されており、八坂神社の祭神はスサノオ尊とその皇子たちとなっているのはこういった由来からです。

 話は変わってお茶についてお話しましょう。珍皇寺の絵図の中に「ちゃや」とひらがなで書かれたものがあり、一人の男が茶釜を前にして手で持った茶わんに茶を入れて抹茶を立てているという絵があります。そういう茶店が3軒ほど描かれています。江戸時代になると、現在の九条の橋のところに、二橋という橋があり、その橋の下で、黄檗宗萬福寺の僧、売茶翁が煎茶の店・登仙坊を開いてみんなにサービスしたといわれています。『喫茶養生記』を著した建仁寺の栄西禅師がお茶を栂尾の明恵上人に、明恵上人はそれを宇治に伝え宇治茶となり、栄西の孫弟子にあたる東福寺の聖一国師が宋からお茶を持ち帰って郷里の駿河に伝え静岡茶となりました。東山が日本のお茶文化に影響を与えたと言うこともできるでしょう。

■東山の交通

 近代以降については、明治13年、東海道本線は東山にトンネルを掘れなかったため、ずっと南側、今の国立京都医療センター辺りまで迂回して山科とつながりました。ですから、現在の奈良線の一部は昔の東海道本線なのです。掛け替え前の鴨川の鉄橋は明治11年から12年にかけて、日本人技師だけでつくられました。

 明治10年の旧松原署の地図によると、大和大路が東山のメインストリートです。旧松原署は不便な場所にありましたが、昔はいい場所にあったといえるでしょう。東福寺付近一帯に、平安時代の大きなお寺、法性寺がありました。藤原道長の曽祖父にあたる藤原忠平が建てたもので、その前を南北に法性寺大路がつくられ、それが大和街道、大和大路となりました。

 以上、東山にちなむ古代から現代までの歴史上の話題を集めてみました。

■東山と水の関わり

 中嶋 私の自宅は泉涌寺のすぐ近くですが、建てるときに地面を掘ったら地下2mのところで、すごい地下水脈に当たってしまいました。ものすごい勢いで水が噴き出しびっくりさせられました。泉涌寺は泉が湧く寺ということで名付けられたお寺ですから、この辺りはもともと水が豊富にあったのでしょうね。

 宇佐 汁谷という地名も残っていますね。今の澁谷通りです。ですから、十分あったのではないでしょうか。八坂神社ももとは泉が湧くということから来る原始信仰が起こりだといわれています。

 中嶋 方広寺の石垣はすごく巨大で立派ですが、石はどこからどう運んできたのでしょうか。今残っているのは全体の一部なんでしょうか。

 宇佐 詳細は存じませんが、秀吉没後の大工事としては大変なものだと思います。石は府内でしたら笠置から船に乗せて木津川を使って運んで来たことが知られています。大坂城の石垣は瀬戸内海の小豆島から潮の干満を利用して筏にのせ、運んだことは知られています。

■皇室と仏教

 垣田 泉涌寺は皇室のお寺だということですが、天皇も仏教で葬られたのでしょうか。

 中嶋 泉涌寺には歴代天皇の陵墓がいくつもありますし、少なくともその頃は仏式だったのでしょう。他のお寺でも、昔は門跡といって皇族が出家してお寺の住職になるということはごく普通にあったようですね。今日より皇室とお寺の関係は深かったようです。

 宇佐 明治以前には京都御所の中にも仏堂があり、お坊さんがお経をあげていました。

 松井 泉涌寺の中に今熊野観音寺がありますが、そこには医者の霊を祀る医聖堂と呼ばれる塔があります。お金さえ出せば我々もそこに入れるそうです(笑)。

 中嶋 東山地区の歴史について、宇佐先生から詳細にお話しいただきました。ありがとうございます。まだまだいろいろなことをお聞きしたいのですが、そろそろ医療についての話に移りたいと思います。

第2部 時代を先取りした取組み

■黎明期の東山医師会

 中嶋 まずは東山医師会の設立前のことについてお聞きしたいのですが、ご存じでしょうか。

 大本巌 私はまだシベリアから帰ってきていませんでしたし、もう当時を知っている人はいないのではないですか。

 大本一夫 その頃の組織はどのようになっていたのでしょうか。

 松井 京都府医師会があり、その東山支部だったようです。GHQにより、それまであった軍国主義的な組織はすべて解散させられて、昭和22年に改めて組織化されました。東山医師会の設立も同じ昭和22年です。

 大本一夫 では、東山医師会設立以前もそれに近い組織はあったということでしょうね。

 松井 そうだと思います。東山医師会初代の会長が武藤友太郎先生でした。その後5代を経て、6代目が安住義人先生です。安住先生は会長を5期10年つとめられています。

 聞いた話では、昭和22年、23年は税務攻勢が激しく、税務署から医師会に対して税金の負担額が割り当てられていたそうです。武藤先生はとても苦労されたようで、そのせいでしょうか、会長を辞められて半年ほどで亡くなられました。

 大本一夫 それは個人ではなく、医師会の組織に対するものですか。

 松井 各地区医師会の負担額はいくらと、各会長に割り当てがなされていたそうです。

■若手医師による改革

 大本一夫 もちろん当時は国民皆保険制度ではありませんが、医療費はどう算定されていたのですか。

 松井 甲表、乙表というのがあり、京都市内は甲表、郡部は乙表と決められていました。昭和26年当時1点は甲表が12円50銭、乙表が11円50銭でした。

 大本一夫 高度成長期に入るだいぶ前のことで、医師の所得水準もそれほど高くなかったでしょうし、医業課税への重圧というのはかなりのものだったのでしょうね。

 松井 昭和41年、私と大本巌先生、それに田村清次先生らとで相談して医師会の改革を志したんですが、理由の一つがそのことでした。安住先生が会長になられて初めて東山医師会の改革ができたと思います。

 大本巌 戦後、若い医師たちが復員して開業し始めると、患者をとられるということで、年配の先生たちとの間に確執が生まれました。私は気が強かったから負けませんでしたが、おとなしい先生は大変だったと思います。

 しかし今でも覚えているのは、年配の方の中にも応援してくれた先生がおられたことです。一番良くして下さったのが、中嶋毅先生の先々代である中嶋英一郎先生、そして岡田温先生の先々代である、岡田才一先生でした。このおふたりは若い世代を本当に大事にしてくれました。

 その頃はすでに保険診療もありました。私は昭和27年に開業しましたが、そのときに保険申請もしています。開業届、入会届と保険の申請書、それらの書類一式は医師会に置いてあったのを覚えています。国民皆保険制度ができるのが昭和36年ですから保険診療はまだ少なかったですね。自費の方が多かったです。自費といってもそれだけのお金を取ることはできなかったですけれど。

 大本一夫 税務署は患者数から見て収入はもっと多いはずだとにらんでいたわけですね。おそらく会長は税務署からいろいろ言われていたんでしょう。

 垣田 しかし、どこの医院にどれだけ収入があるなんてことは医師会はわかりませんよね。立場上、個々人の税負担額を決めざるを得ないなら、会長が心労のあまり亡くなるというのはあり得ることですね。

 ところで、京都第一赤十字病院の前身は陸軍病院だったのでしょうか。

 大本巌 そうです。昭和12年から16年まで京都陸軍病院で、18年に京都第一赤十字病院と改称しています。

 宇佐 戦後は進駐連合軍に兵站病院として接収されました。それで東山七条の旧賀陽宮邸に避難していましたね。

 松井 私は昭和21年、患者として旧賀陽宮邸にあった日赤に行ったことがあります。ふすまの間に机が置いてあり、そこで診てもらった覚えがあります。

 大本一夫 そもそも第一日赤ができたのはいつ頃なんでしょうか。

 大本巌 昭和9年、我々が子どもの頃です。それまでは竹やぶで、子どもの遊び場でした。

■山科医師会との関係

 中嶋 昭和51年に東山区から分区して山科区ができます。ところが、山科医師会ができるのが47年で、行政区としての分区よりも時期が早い。理由はなんだったのでしょうか。

 松井 人口が多くなってきたという事情からだったと思います。

 大本一夫 当時すでに医師会としての財産も持っていたので、それを分けるのは大変だったんじゃないですか。

 松井 それはスムーズに行きました。資産の分割も人数割りだったと思います。

 大本一夫 その後も東山と山科は仲がいいですよね。

 大本巌 両医師会同士のゴルフの対抗戦なんかもやっていましたしね。

 中嶋 山科医師会のゴルフのレベルが高すぎて対抗戦にならなくなって、2、3年ほど前になくなってしまったのは残念ですね(笑)。

■画期的な 乳がん検診事業

 中嶋 東山医師会から山科医師会が分かれたあとに、乳がん検診事業が始まりました。市内ではどこもまだ集団検診していなかった頃のことです。

 大本巌 それも安住先生が一生懸命に進めたものです。しばらくすると眼科と耳鼻科の検診も始まりました。ところが当時の厚生省、京都市とも補助金を出せないと言うのです。当時、私は医師会の理事でしたので、京都市に交渉に行ったのですが、当時の市長、舩橋求己さんが「機密費」から5万円出してくれました。「5万円とは少ないと思われるかもしれませんが、機密費からの5万円といえば相当な金額です。そのことを察して下さい」と言われました。

 全国的にも耳鼻科や眼科の検診をやっていたところはなかったんじゃないかと思います。中でも乳がん検診は発展して市全体の事業になりました。

 中嶋 市の事業になるまでに、10年以上かかっていますね。京都新聞社会賞を受賞するのも市の事業になってから。検診結果は検診事業報告会を開いて行政の担当者や市議にも来てもらい、そこで報告された検診による早期発見、早期治療の成果に担当者らが驚いて、乳がん検診が市全体の事業として行われるようになったと聞いています。その功績で京都新聞から賞をいただいたということですね。結果をまとめ、それを報告会という形で公表したというのは、当時小さな医師会としてはよくやったということですね。

 大本巌 検診のとき応援に来ていた医師たちから、結果が知りたいという声があったので、報告会を開くことになったのが始まりです。

 垣田 検診はどういう動機で始められたんですか。

 松井 成人病の検診は当時からありました。しかし我々としては、がんの検診をしたいという思いがありました。幸い、当時の会長のご子息の安住修三先生が第一日赤で乳がんの担当部長をされていたので、まずは乳がんから始めようということになったのです。続いて耳鼻科、眼科検診もやろうということになった。当時の担当理事は岡先生で、かなり苦労されていました。乳がん検診は先ほどから言われているとおり市全体の事業となりましたが、眼科、耳鼻科検診はなくなりました。というのも患者自体が少なくなったからです。健診開始当初はまだ感染症がかなり多かった時代でした。

 大本巌 眼科医、耳鼻科医の数が少なくなったのもやめた理由の一つですね。一部の医師の負担がものすごく重くなっていましたから。

■少子高齢化時代のモデルケース

 中嶋 会長をされていたときのエピソードなどありますか。

 大本巌 個人的な話になりますが、中井脩太郎先生を保険医協会の理事に推薦し、着任してもらったところ、中井先生が、文化部担当理事になったが何をすればいいだろうと相談に来られました。絵画教室でもつくったらどうだろうかと提案すると、「だれも応募者がいないと恰好が悪い。入ってくれ」と言われたものですから、入ることになった。それでできたのが「火曜会」です(笑)。

 垣田 その火曜会に入ったおかげで今の私があります(笑)。楽しかったですね。

 松井 医師会ではさまざまな会合がありました。私はなるべく医師でない人の話を聞こうと思い、いろんな方々に来ていただきました。例えば考古学の森浩一氏。40周年の式典の記念講演では、東京芸術大学・東京工業大学名誉教授の清家清氏をお呼びしました。会合に医師以外の人を招いてお話を聞くのは現在も東山医師会の秋の行事の一つである「秋のつどい」に引き継がれています。

 大本一夫 私のときは病診連携を進めたり、第一日赤とより良好な関係を構築することを主眼としていました。そのときの成果は今にもつながっていると思います。

 垣田 医師会と第一日赤との連携は病診連携のモデルケースの一つですね。

 中嶋 東山区が現在抱えている問題といえば、他地区に先駆けて進む少子高齢化と人口減少です。我々はこれに対して取り組んでいくフロントランナーの役割を担っていると思います。さきほど出された検診事業も同じバックグラウンドがあったのではないでしょうか。つまり他の地区より成人病が多い、高齢化が進んでいる、しかし公的な検診体制が整っていない。それなら自分たちでやろうということだったと思うのです。

 大本巌 我々の時代は、通勤圏が広がり、若い世代が最初は山科区へ、そして次は大津へと住居を移していった時期です。今では近江八幡、能登川へも多く流出しています。そのため当地区の高齢化率が高くなっています。

 松井 今は家の外を歩いていてもお年寄りばかりですからね(笑)。

 大本一夫 私は伏見から通っているんですが、伏見稲荷を過ぎると突然雰囲気が変わるのがわかります。道を歩いているのがおばあさんばかりになる(笑)。

 医師も新規の人が来ないですね。マーケティングをすると、東山では採算が取れないということになるんです。

 中嶋 東山ではもう、公的な病院が潰れている状況です。診療所もうまくいくはずがないということになる。ここ5年間でA会員入会は1人だけです。

 大本一夫 これから困るのは往診です。国は在宅医療を進めようとしていますが、じゃあ往診にはだれが行くの? ということになる。受診側が減ると提供側も手薄にならざるを得なくなるということです。

 中嶋 現在東山では、産科の開業医はゼロです。小児科専門医の開業医もいません。医師会実務を担う医師も減少傾向にあり、地区医師会の仕事量と行事を減らしていかなければ、これからは立ち行かなくなるのではないかと思っています。

■公共交通の整備を

 松井 最近の新聞に載っていましたが、東山区は坂が多いので、買い物に行けないお年寄りが大勢いるそうです。しかしそういう状況があるにもかかわらず行政はバスを走らそうとはせず、買い物難民が増えているんだそうです。

 医療とは直接関係ありませんが、市バスは平地の広い道しか走っていません。しかし、お年寄りはそのバス停まで歩いていけない。なぜ小型のバスで狭い山側の道を通してくれないのか。東山通りにしてもそこに下りてくるまでの坂がお年寄りには大変なんですよ。

 大本巌 日吉ヶ丘高校よりさらに上の住宅地の住民は大変です。月に1回コミュニティバスが運行しているとのことですが、それではまったく足りません。

 松井 本来公共交通が担うべきことなのにそれがなされていない。京都市交通局は収支を黒字にすることばかり考えて、市民に不便をかけても赤字部門は切り捨ててかまわないと考えているのではないでしょうか。「保険医新聞」にはそう書いていただきたいです(笑)。

 大本一夫 せめて本町通りにバスを走らせてもらいたいですね。

 松井 そう、それだけでもずいぶん違いますよ。またそうなれば医療行為もやりやすくなります。

 垣田 京都市内でそういう実態にあるというのは、他地区の先生はご存じないでしょうね。

 中嶋 歴史を繙くと、さまざまなことから今が成り立っているということが実感できました。状況は大変ですが、これからも皆さんのお力を借りて東山の医療を守っていきたいと思います。本日はありがとうございました。


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