占領下の「綜合原爆展」(3)/川合一良(下西)
「綜合原爆展」の姿
1951年5月14日から1週間にわたって行われた「京大春の文化祭」では、理学部と医学部学生がそれぞれ別個に専門分野の原爆展示を行ったが、同学会(全学自治会)でも、天野重安(医)、木村毅一(理)両助教授と原爆作家大田洋子による「原爆講演会」を開催、内外の大きな反響を呼んだ。このとき、筆者は同学会の中央執行委員を務めていた。
京大同学会が市内百貨店で一般市民を対象にした「綜合原爆展」実施を決定するや、学生たちは直ちに行動を開始した。各学部では自治会、民主主義科学者協会(民科)を中心に、学部の専門性を生かしたシナリオ作成を開始、3人の学生は広島に赴き資料収集に当たった。同学会宣伝担当グループは小型のスチール展を多数作成し、街頭・主要労組・市民団体や学校等を巡回して宣伝した。
パネルなどの作成
そして何より大きかったのは、工学部建築学科、西山夘三助教授(当時)の精力的な活動である。「綜合原爆展」準備の決定を受けると、西山は5月31日、自らが指導する「新日本建築家集団京都支部(NAU・K)」の臨時常任理事会を召集してこの催しへの参加を決定、計画案を作成して傘下の学生たちの分担を決めた。パネル、パノラマ、入場券とポスターの原画などの製作である。パノラマは西山が被爆直後の広島市を描き、これを学生たちが石膏で仕上げたものである。各学部で収集された資料は全て西山の手で35ミリフィルムに撮影され、その中の一部が拡大されてパネルに使用された。
パネルは190枚で90×90センチ。木枠と合板貼りは専門家に依頼し、学生たちがその上に紙を貼り、ポスターカラーを使って手書きで書いていった。パソコンや写植などなかった時代である。大変な労力を要したが、主な作業は京大建築科学生が行い、京都工芸繊維大学や京都美術専門学校の学生も援助した。タイトルは、西山自身が描いた。
「原爆の図」参加決る
一方、丸木位里、赤松俊子夫妻のもとを学生が訪れて「原爆の図」出展を依頼し、快諾を得た。未公開の4部5部の出展も決まった。
会場問題
丸物百貨店は一旦会場を貸すことを承諾していたが、6月21日、それを断ってきた。そこで同学会は青木宏委員長を交渉に派遣、これに角南正志学生課長、木村作治郎分校主事らも参加、丸物からは京大出身の大里専務が出席して懇談した。そして円満裡に交渉は終わり、再び会場を借りることができるようになった。この経過の中での占領軍や警察の介入については不明であるが、時代が時代であっただけに、丸物がよく合意したものと思われる。
日時 1951年7月14日より10日間。入場費:30円
各学部の分担
医学部:原爆が人体に及ぼす影響
理学部:原爆の原理
工学部:パノラマ、パネル製作と、入場券、ポスターの原画作成。建物への被害
農学部:原爆が農作物に与える影響
文学部:原爆に関する詩や小説の紹介。「原爆体験記」製作
法学部:原爆投下をめぐる世界の動き。原爆の国際管理
経済学部:原爆の生産機構
会場風景
「この展示を/原爆でたおれた/広島、長崎の四十万の/犠牲者に捧ぐ」。
濃いブルーの下地に燈色で記されたこのパネルが入り口の正面にかけてあり、その下にパノラマが置かれていた。そして「原爆の図」五部作が飾られ、次いで多くのパネルが壁面を埋めた。この催しで特に目立ったのは、連日、展示物の前で白い指揮棒をかざして大声で説明する20人ほどの学生の姿であった。入場者と学生は一つになり、連帯が生まれた。また会場には、できたばかりの「原爆体験記」や「学園新聞原爆展特集号」が置かれて関心を呼んだ。このように「綜合原爆展」は大成功の裡に一応の幕を閉じた。
西山助教授作成のパネル
医学部作成のパネル
追加でつくられた入場券
当時の丸物百貨店