医療訴訟の傾向について思うこと(9)  PDF

医療訴訟の傾向について思うこと(9)

 
莇 立明(弁護士)
 
医療訴訟での最高裁の役割は終わったか
 
 最近、医療訴訟における「最高裁判例の到達点」と題して前京都地裁第7民事部部長が法律専門誌に長文の論文を発表した(判例タイムズ1401号)。それによると最高裁判例で医療訴訟における医療水準論が確立されたのは、1995年6月9日、姫路日赤病院の未熟児網膜症事件判決からである。新しい医学的知見が医療水準となるには、その知見が、同レベルの医療機関に普及する段階に至ってはじめて、一般医師も守らねばならない注意義務となるものであることが確立された。そこまで至っていない医学知見が先進的な医療機関で採用された途端に、全国一律に同じレベルの扱いを受ける医療水準となるものではない、という訳である。それから、最高裁は2008年ころまでにかけて、医療機関の責任をみとめる多くの判例を産みだしたという。
 しかし、2008年に入ると、判例数も次第に減り、医療機関の責任を否定する事例も増えた。最近の最高裁は医療判例を出していないということである。それは、何故なのか。その理由は、すでに医療訴訟における主要な論点が最高裁でも出尽くしてしまったためであるという。
 すなわち、医療訴訟における主要な論点は、医療行為における過失論、そして医療水準論を基本としながら、次第に適用範囲を広げた説明義務論である。そして、更に、保護法益として患者の生命、身体のほかに、医師に過失がなければ、なお患者が生命を維持し得た、あるいはまた、重大を後遺症が残すことがなかった「相当程度の可能性」の考え方が保護法益に組み入れられることにより始まった「新たな因果関係論」が華々しく展開されたとする。それによって医療訴訟の判断構造は、大きく枠組みを変更することとなった。この傾向は1995年頃から始まった一連の判例によって、すでに固まったものと評価することができる。
 逆に言えば、最高裁は、患者の単なる期待権だけでは、保護法益とせず、しかし医療の結果が悪ければ、医師に少しでも過失があったことが証明されれば結果との因果関係を「可能性」のレベルで容易く認め、患者を広く救済しようとする道へ踏み込んだということができるのである。医療裁判はもはや白黒を決する時代は終わったのか。灰色の事案(灰色としか解明できない事案が如何に多いことか)で何程かの救済をする時代となったのであろうか。この論文は、医療訴訟に関する最高裁の役割は終わったとの見方を示したといえよう。

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