医療の不確実性を考える(18)

医療の不確実性を考える(18)

弁護士 莇 立明

医療の不確実性と医療過誤訴訟

 画期的な日弁連宣言

 日弁連は10月3日富山市で人権大会を開催し、「安全で質の高い医療を受ける権利の実現に関する宣言」を採択した。これによれば、医療事故が続発しているにもかかわらず、被害の迅速、公正かつ適切な救済が遅延しており、その原因には、「医学・医療自体の限界や危険性から不可避的に発生して、医師に責任の認められない場合の被害救済制度がない」、「さらに、医師・看護師などの不足や過酷な労働環境、診療科の休止や医療機関の閉鎖、救急患者の受け入れ困難など人的及び物的医療供給体制が悪化している、これが医療の安全性や質を脅かす要因となり、医療事故発生の背景となっている」と指摘している。

 全国の強制加入弁護士団体である日弁連がこのような、医療事故発生の原因に今日の医療供給体制の不備、悪化が関係していると宣言したのは画期的な出来事である。これまで、医療過誤訴訟においては患者側も裁判所も、医療事故発生の原因は全て医師の医療行為における過失−注意義務違反の有無が全てであり、医師や看護師の不足とか救急医療の現状など供給体制の問題は事故の責任に無関係な周辺の事情に過ぎないとして度外視の態度を一貫して来たものである。特に患者側は被害救済を急ぐあまりに真の原因を究めようとせず、まず、医師は謝罪せよ、速やかに事故とその責任を認めよ、そして直ちに損害賠償に応ぜよとの強い態度を変えなかった。医療が本質的に不確実なものであり、結果は予測外のものがあること、それは必ずしも医師のミスではないものがあること、また、医師らの置かれている医療環境の現状などから事故が避け難かった面があることなど多面的、多角的な検討を経ないと医師の民事責任(刑事は勿論のこと)は軽々しく結論づけられないことがはっきりしてきたのである。

 日弁連宣言は、医療の現状が国民に差し迫った人権問題であることを明らかにし、そのためにまず国が優先して安全で質の高い医療供給体制を確保する責務があると謳っている。

 医療訴訟への影響

 現在の医療訴訟では患者側は、医療における悪しき結果、予測しない障害、死亡などが発生すれば、担当医師の医療における過失−注意義務違反を推定し、かつ、結果との因果関係(高度の蓋然性の存在)を証明することなく、医療の多様性、不確実性を活用して「相当程度の可能性」の存在を主張し、裁判所に認めさせる傾向が支配的となって来ていた。

 これは、最高裁平成12年9月22日判決の影響である。この事案は、救急受診した上背部痛、心窩部痛のある患者に対し、胸部疾患の可能性があるのに、医師はその初期治療として行うべき基本的義務―血圧、脈拍、体温、心電図などの検査をしなかった。そして、急性膵炎に対する薬の点滴を実施したのみであった。その点滴中に患者に致死的不整脈が生じて容体急変し死亡した。最高裁は、医師が初期治療を誤ってさえいなければ、救命し得たであろう高度の蓋然性は認められないが、なお、「死亡の時点で生存していた相当程度の可能性があった」と判断して期待権侵害による慰謝料を認めたものである。

 この判決は、医療過誤民事訴訟の理論的構造を患者側に有利に大きく変革した画期的なものであった。その後、従来は、医師に過失が認められる場合でも、結果に対する因果関係が高度に蓋然性あるものと認められないケース、すなわち、医師側無責と考えられる事例についても、結果が、患者側に思わぬ不意打ち的なものであり、裁判所が心情的にも気の毒であると認めたものには「相当程度の可能性」があったとして慰謝料名目で金銭の支払いを命じる裁判が続出している。争えば医師に無責と思われる事例についても、このような処理(和解に多い)がされてくると、医療裁判とは一体何であるのか、医師に責任がないのに被害救済だけすればいいのかとの疑問も生じる。

 今回の日弁連の宣言によって、医療事故の原因がもっと大きな外的な条件にも関係する多面的なものであることが裁判所にも伝われば、違った角度・観点から裁判所が解決策を考えるきっかけともなるであろう。そのことが期待される。

【京都保険医新聞_2008年10月20日_3面】

ページの先頭へ