保団連医療研
“いのち”を考える研究集会で京都から2人が演題を発表
「生命(いのち)−その重さと尊さ 生命(いのち)−その喜びと希望」をメインテーマに、10月11・12日の両日、第23回保団連医療研究集会が仙台市で開催された。全国各地からの参加者は、医師・歯科医師、一般市民ら914人に上った。1日目は、バッハ研究家の川端純四郎氏による特別講演「J.S.バッハの音楽が現代に伝えるもの」、朝日新聞記者の伊藤千尋氏による記念講演「人が活き活きと生きる社会−特派員が見た世界から」などが行われた。2日目の分科会では、京都協会から山本昭郎氏(下京西部)が「府内の大気汚染調査」、木村敏之氏(宇治久世)が「『満洲国』からの引揚」をテーマに演題発表した。以下に木村敏之氏の参加記と川端氏の講演の概要を紹介する。
バッハの音楽が現代に伝えるもの
川端純四郎氏(バッハ研究家)が講演
講演する川端純四郎氏
人生を変えた貨物船でのドイツ行
東北大学で宗教哲学を学びました。1960年にドイツに留学するのですが、60年安保の真っただ中でしたから、いかにノンポリの典型のような学生であったかお分かりかと思います。ドイツへは、なるべく安く行くため貨物船に乗り込みました。この貨物船での経験が私の人生を変えました。
貨物船ですので、行く先々の港に寄港します。そこで見たのが第三世界・アジア・アラブ世界のすさまじい飢えと貧困です。一番ひどかったのがボンベイです。上陸するとうわーっと捨てられた子どもたちが寄ってきます。その子どもたちをかき分けて街へ出るのですが、その時触った子どもたちの痩せ細った骨と皮の感触をいまでも思い出します。
港を離れる時、あの飢えた子どもたちを見捨てて、自分だけがドイツに行くことに非常に強い罪悪感を覚えました。
人間は社会の中で生きている
キリスト教の牧師の家に生まれて、キリスト教しか知らず、自分の魂の救いしか考えたことがなかった人間が初めて、世の中には私だけ救われればよい、というわけにはいかないことがある。餓えた子どもたちが生まれない世の中を作らなければならないということを感じ、自分だけの救いを考えるということに非常に強い疑問を持ちながらボンベイを後にしました。
抽象的な言い方をすれば、人間は社会の中で生きている。私一人で生きているわけではない。それゆえ私だけ良ければよいというわけにはいかないということを、本当に遅まきながら25歳にしてようやく気がついたのがボンベイの体験でした。
人間は否応なしに歴史を背負わされている
そして、ドイツのマールブルグに着きました。そこで日本人嫌いの中国人の医学生と仲良くなります。ある日晩御飯に呼ばれました。別れ際に彼から、彼の父、母、兄、姉を彼の見ている前で日本兵に殺されたと告げられます。進退窮まったとはあのことですね。しどろもどろに何か言い出すと彼は「何も言うな。聞いてもえらえればいい。聞いてもらって感謝する」と言って私は釈放されました。這這の体で下宿に逃げ帰りベッドで最初に考えたことは「私が殺したわけではない。私の家族も殺していない。なんで私が責任を負わなければならいないのか。私には関係ない」ということでした。
しかし考えていくうちに、明日また彼に会うだろう。彼に「私には関係がない」と言えば、せっかく生まれかかった彼との友情もお終いだろうと思いました。私がやったわけではないけれども、日本がやったんだ。歴史というものは自分がやらなかったことについて責任を取らされるものだと初めてあの時分かりました。私がやったわけでないから関係ないと言っていたら、歴史とは無関係に生きなきゃいけない。日本人である限り自分はやってなくても日本がやったことについては責任を問われる。否応なしに歴史を背負わされて生きているんだと気づきました。
私は個の確立が最大の課題である実存哲学の勉強に行ったのですが、実存哲学ではダメなんだと思いました。個の確立は大事なことですが、その個はただ個としてあるわけではない。歴史の中で、社会の中で生きている、歴史的社会的諸関係のなかで人間は存在しているんだ。ようやくこのことに気がついて日本に帰ってきました。
「共同体」を表わすバッハの音楽
もう一つドイツへ行ってショックがありました。ドイツの讃美歌には「きよしこの夜」がなかったんです。今は入っていますが、当時はなかった。私が知っている讃美歌は全然ないんです。見たことも聞いたこともない16世紀のルターやカルヴァンが作った古いものばかり。気がついてみると歌詞は聖書の言葉でした。私が日本で讃美歌と呼んでいたものは、私の救われた喜び、私の罪の嘆き、私の悔い改めた心、みな「私」の気持ちを歌うものでした。でもドイツの讃美歌は、聖書の言葉に節をつけて歌うんです。キリスト教的に言えば、客観的な神の技を褒め称える。それを歌うのは共同体としての教会。讃美歌は個人の歌ではなくて共同体の歌なんです。このことに気がついて、バッハのことが少し分かったような気がしたんです。
バッハのキリスト教音楽の一番の中心はカンタータという、オーケストラ伴奏つきの小編成の独唱と合唱の組み合わせの音楽ですが、最後に必ず讃美歌が歌われるんです。コラールというのですが、なぜ最後にあんなコラールがついているのか、その理由が分からなかったんですが、ドイツの讃美歌を知って初めて、その意味が分かった気がしたんです。最初から最後の1曲手前までは、バッハという個人の天才のあらゆる個性の独創を発揮した芸術としての音楽で、最後に単純な讃美歌がきて、「これは私個人の音楽ではありません。教会という信仰共同体のみんなの歌なんですよ」ということで終わっているんだなと思ったんです。
バッハは音楽職人の一族の生まれです。と言っても現在の芸術家とは全然違います。職人であって雇い主の注文で作っていく。当時のドイツは、一つには教会が雇う。二つめは宮廷が雇う。三つめは都市が雇う町楽師ですね。ブレーメンの音楽隊などがそれです。バッハの一族はほとんどがこの町楽師でした。バッハは後に世界最高の芸術家となるのですが、なってからも職人であることは最後までやめませんでした。
例えばベートーベンは完全な芸術家です。自分で納得のいくまで作り直し推敲に推敲を重ねて、完璧なものにして発表する。かたやバッハは毎週毎週教会で演奏するカンタータを作らないといけない。直す暇はないんですね。職人ってそういうものです。その職人だったバッハが、芸術家へと変身します。途中で宮廷に職場を移しました。この間、「ブランデンブルグ協奏曲」とか「無伴奏バイオリン」とか「平均律」とか、バッハの音楽で一般の人が一番よくご存知のものは、この宮廷時代のものです。芸術のための芸術に一番接近した時代ですね。
ところが、人生の最後にバッハはもう一度教会に戻ってきます。ライプチヒの聖トマス教会に自分から志願して移ってきます。なぜなのか。私の推測では、バッハの体の中に先祖代々植えつけられている魂、つまり自分の作る音楽がみんなの音楽だ、市民共同体全体の音楽であって私個人の音楽ではない。そして、ほんの一握りの人間だけが喜んでくれる音楽ではなくて、みんなの気持ちにつながるような音楽でありたい。そういう願望がバッハにはぬぐえなかったんだろうと思うんです。ですから最後に教会に戻って、教会の信者は町の全員ですから、その人たちも納得してくれる音楽、しかもそれを自分の最高に個性的で独創的な才能と両立させる。そういうものを最後のライプチヒで目指した25年間であったのでないかと思います。
個の自由と全体の利益が共存できる社会へ
今、日本でこのバッハの難しい音楽がものすごく流行ってるんですね。CDもよく売れていますし、ラジオをかければどこでも聴けますし、なぜなのかって多分これが理由なんではないでしょうか。つまり、封建社会の共同体、市民共同体、教会共同体というものを壊さないで、共同体を守りながら同時に最高に個性的で独創的で自由な音楽を作り上げる、この二つを一つにしたのがバッハなんです。
今は時代の曲がり角で、資本主義という仕組みがいよいよ終わろうとしている。次の時代に移ろうとしている過渡期に来ているんだと思うんです。その次の時代というのは、資本主義が実現した個の自由を大事にしながら、同時に他者とともに生きられるような社会、そういう社会に向かって全人類が模索し、実験している。あと数十年のうちにはそういう新しい時代が来るんだろうと思います。バッハの音楽はそういうことを私たちに語りかけているのではないかと思うわけです。
医療研参加記 国民の健康と暮らしを守る活動の飛躍へ
木村 敏之(宇治久世)
今回のテーマは生命(いのち)−その重さと尊さ−その喜びと希望という、重くてしかし支え守らねばたちまち失われるであろう尊いものが取り上げられた。国民の健康と暮らしを守る中で活動されている保団連の研究活動として、より飛躍が期待できるチャンスとなったと思う。主催し、運営された保団連と宮城県保険医協会のご尽力に感謝したい。
小生も初めて、第5分科会『医学史・医療運動史・医療と裁判』で、「『満洲国』からの引揚」というテーマにて、敗戦直後から満洲に取り残された医療担当集団(病院勤務の職員たち)が引揚げるにつき、どう対処し無事帰国を果たしたかを身近な資料を基に研究し発表する機会を与えていただいた。
今回研究集会の特徴は、3つのシンポジウム全てが「戦争と医療」「子育て支援」「過重労働」と当事者にとって生命をかけたものであり、一般国民にとっても見過ごすことのできない課題であった。
特に、特別講演の川端純四郎先生によるバッハ音楽を語られた中で、「人間は否応なしに歴史を背負わされるものである、とても実存哲学の枠内では理解できない」という話。伊藤千尋氏はジャーナリストとして、また新聞記者として世界を駆け巡られ、特に平和憲法が日本と同様存在するが、それだけでなく軍隊のないコスタリカという小国が平和を輸出し、内戦中の隣国ニカラグアから難民を100万人も引き受けていたと言う。これは日本にも大きな示唆を与えているだろう。
「戦争と地域医療」のテーマで話された村口至先生は私と同じ年で同じ大連生まれの引揚者ということで、より一層聞く耳に力が入った。医師の社会的役割と責任、医療の社会化の取り組みの難しさ、地域医療の崩壊はなぜ起こるのか、そして戦争と地球環境破壊、これらの課題との闘いは今後の保団連の活動にも大変参考になる話であった。
残念なことに、この風光明媚な仙台を観光することなく、わずかに牛タンを味わうことで後にしなければならなかったのは、返す返すも心残りなことであった。
【京都保険医新聞第2665号_2008年11月17日_4面】