佐伯灯籠祭の継承を 佐藤 隆(亀岡)  PDF

佐伯灯籠祭の継承を 佐藤 隆(亀岡)

 私の子どもの頃、毎年8月14日の午後に東の方から大太鼓の音が聞こえてくる。やがて、沿道を埋めた村人の前を、法被姿の若衆に担がれた神輿が巡行。5基の灯籠が供奉し正装の神官や世話役が従っている。江戸時代、享保2年の『諸国年中行事』に、口丹波の奇祭「丹波さいきむらの灯籠まつり」として紹介された、「佐伯灯籠祭」の初日である。

 旧佐伯郷(亀岡市田野町・吉川町)の氏神、田野神社他3社の社史、文献によると、この祭は寛喜元年に広幡大納言が田野神社に勅使として参向され、5基の灯籠を下賜されたのがはじまりとされている。

 もともと灯籠は、仏前供養の具とされてきたが、室町時代の公家社会で盂蘭盆に様々の趣向を凝らした華やかな風流灯籠を贈答品とする風習があり、宮廷にも献上され、下賜の灯籠にも大きな影響があったと思われる。この灯籠に地域の名を冠した佐伯灯籠祭が執行され、神輿の渡御巡行にも供奉することから、五穀豊穣を祈る神事と盂蘭盆の風流灯籠まつりの結合した特異な民俗文化が生まれたと伝えられる。

 これらの灯籠は、その年の豊作を祈って、御能、種蒔き、田植え、脱穀・臼摺り、石場搗といった1年の農事をあらわす人形を飾り、背景にその折々の景色を画く。1番から5番の神灯籠または宮灯籠、役灯籠と呼ぶ風流灯籠で、毎年新しく作り替えられる。現在の灯籠が下賜されたものと同一型式かは明らかではないが、昔の御所灯籠の面影を伝える唯一の貴重なものと考えられる。

 灯籠には、神灯籠の他に台灯籠がある。中央に神殿あるいは宮殿を精巧に模した御殿があり、人形浄瑠璃の舞台になる。この人形は京雛の背に竹串を刺した一人遣いの串人形で、文楽人形以前の古い形を伝えている。

 従来、氏神の祭事は氏子を数地区に分けて輪番制で奉仕し、約1カ月の準備期間を経て8月14日の神幸祭、15日還幸祭の両日に執行されたが、1941(昭和16)年ころから8月14日に一本化された。神灯籠は輪番地区で祝い事のあった家(灯籠宿)に8月7日から迎えられ、本祭まで灯明が灯され祀られる。

 祭当日昼前に神灯籠は台灯籠宿に集合、出発式を行い田野神社へ運ばれる。神事のあと神輿に供奉し、途中、河阿神社、若宮神社と合流して御霊神社に到着。神迎えの大松明が焚かれ、再び神事を執行後、台灯籠を除き氏子地区を隈なく巡行して田野神社へ還行。厳かに四社合同祭典が斎行され、台灯籠では人形浄瑠璃が上演される。祭典の後、神灯籠と神輿が参道を行き交う「灯籠追い」や、神輿と大太鼓がぶつかり合う勇壮な「太鼓掛け」、最後の「灯籠吊り」で最高潮に達した祭典も終わり、神灯籠はそれぞれ宿に帰る。その後、日を改めて行われる「灯籠破り」で、解体された神灯籠の部材は関係者らに配られ、厄除けとして玄関に飾られる。

 佐伯灯籠祭も時代とともに神輿巡行の様式が変わり、夜を徹した盆踊りも懐かしい思い出となったが、先人の祈りが込められた祭を後世に伝えるべく、近年「佐伯灯籠保存会」が結成された。

 なお、1985(昭和60)年4月19日に京都府の「無形民俗文化財」に、2009(平成21)年3月11日には国の「重要無形民俗文化財」に指定された。

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