伏見語り 御香宮・腑分け・歴史的地名…  PDF

伏見語り 御香宮・腑分け・歴史的地名…

 中山 本日は、「伏見」を語るということで、御香宮神社の一室をお借りしてお集まりいただきました。御香宮宮司の三木(そうぎ)善則様、伏見医師会から半田先生・岸田先生、いずれも会長を務められた先生です。そして、木谷先生と私は現在理事をしています。

 伏見といえばお酒、私は好きなので、すぐ思い浮かぶのですが、お酒のおいしいところはまず水がおいしいというのが必須です。御香宮さんもお水で有名で、香るほどよい水だったというところからの命名かと思います。また、安産の神様としても有名で、伏見の神社といえば御香宮さんでして、私たち伏見に住んでいる者には、小さい時にお祭りの夜店で夜ごと楽しませてもらった思い出があります。そのあたりも含め、最初に伏見と御香宮に関して、宮司の三木様からお話しいただきたいと思います。

中山治樹氏(進行)
中山治樹氏(進行)

腑分けの行われた地

御香宮宮司 三木善則(そうぎよしのり)氏
御香宮宮司 三木善則(そうぎよしのり)氏

 三木 親子代々六百有余年、神主をやっていますので、自分の家の勤めとして、伏見が歩んできた道を、語り部としてみなさん方にお伝えできればと思っています。とりあえずお医者さんとの関係を切り口にお話しさせていただきます。

 20年ほど前、社務所で伏見の歴史の話を子どもたちにしていました。そのときに、小堀政方(まさみち)という、今から二百年前に伏見奉行をしていた悪代官の話を滔々としていましたところ、終わってから隅の方におられた紳士から、「小堀政方は、私らにとっては大恩人なのですよ」と言われた。私は驚いて「なぜですか?」ときくと、実は小堀政方は、ここで腑分け(1783年)を許可した男だということです。医師の橘南谿(なんけい)や小石元俊らが平次郎という罪人の腑分けを願い出て、小堀政方が許可し、そうしてできた『平次郎臓図』を、みなが写して勉強したとおっしゃるわけです。

 そんなことがあったのかと、よくよく『伏見義民伝』という本を読むと、「小堀政方が平次郎なる軽い罪を犯した者の腑分けをさせたが、五臓六腑というのは決まっているものであり、今さら腑分けしてわかるはずがない。腑分けをした医師が成功したという話も聞かない。これはまことに愚かなことである」と書いてあるのです。

 そういう評価と、紳士がおっしゃったことは全く違うので、私も気になっていろいろと調べた結果、手に入れた資料(写真)がこの巻物です。

 これは写本ですが、二百年前のものです。私は専門外なのでわかりませんが、やはり速く描かないとどんどん変化していくらしく、絵を描く人の腕も達者でないといけません。それに、腑分けは説明する人がいないといけません。

『平次郎臓図』写本は、長い巻物を開くに従い、首の切り落とされた体、首、その切断面(写真)……と、解剖の進行通りに、細やかに鮮やかな彩色で描かれた図があらわれてくる。

 半田 少し間違ったところもありますが、脊椎骨なんて、ちゃんと名前が書き込まれていますね。確かに、肺も解剖すればこんな色です。

 岸田 これだけ描けるのは慣れている人でしょうね。

 三木 初めて腑分けをするときも、当時、差別を受けていた人たちが分けていってくれるんです。素人では分けられませんから。そういう人たちがいなかったら、学問は前へ進めません。で、あとは重さを計っていきます。

 半田 すごく詳しいので感心しますね。

 中山 中がどうなっているのか、見たくてしょうがなかったんでしょうね。

 木谷 昔の医師たちは中がわからないのに、どうして治療ができたんでしょうね。何で見てはいけないと思うようになったのでしょうね。

 岸田 私たちが解剖の実習をしても、見てもなかなか見えない。ちゃんと系統的に、本と見比べてもわかりにくい。それがちゃんと理解した上で描いている感じがします。脂肪組織とかいろんなものがついているから、なかなか見えるものではないですよ。上手に外して描かれています。

 三木 その紳士が、杉立義一とおっしゃる医学史を研究されていたお医者さんだったわけです。そういう出会いがありました。

半田 行氏
半田 行氏

秀吉・家康の町割りで発展

 三木 やはりそれだけ伏見は、進取の気性があったところだということです。それは、伏見が港町であったからだと思います。もともと京都の物資の揚がるところは淀でした。淀の納所(のうそ)というのは、西国から上がってきた税を一旦あそこに納める場所でしたし、木津川・宇治川・桂川・鴨川、そして今はなくなった巨椋池の南の開口口と、京都盆地の水系が全部集中していて、必然的に水運の中心は淀だったのです。

 秀吉は、伏見城を造るために、淀にあった港湾設備を全部伏見に移すわけです。それが南浜、北浜から観月橋あたりまで、大きく港湾設備をこしらえて、そこに築城物資を揚げたのです。築城に伴い、物資だけでなく、いろんな人がやって来てニュータウンができるわけです。水がいいし、人がやってくる、物流が盛んになれば、そこにお酒も自然発生的にできてくるのかなと思います。

 そうしていろんな産業がどんどん起こってくる。お酒も起これば、京セラをはじめとしたIT産業、先端技術もあり、古いバイオテクノロジーであるお酒からナノテクまで、ゴチャ混ぜに伏見の街にある。

 秀吉の伏見は5、6年で、後の二十数年間は家康の伏見です。天下の覇者である秀吉・家康によって整備されました。その町割りが今、伏見の街を活かしているわけです。東からJR奈良線、国道24号線、近鉄京都線、京阪本線、明治の初めに日本最初に走って今はもう廃線になった京都の市電、高瀬川、堀川通(国道1号線)というのがここに集中しているのは、まさしく秀吉・家康がこのような町割りをし、そこに人が集中して産業があったから、城下町がなくなっても宿場町として栄え、単なる通過都市にはならなくて一つの大きな都市空間ができたのです。

 そういうことで、京都とは全く違う歴史を歩んできたし、地域には地域の生きる術があると思うんです。それを私たちは考えていかなければならないと、いつも思っています。

 そして人口が集中してくれば、やはりお医者さんたちも、優秀な方が寄ってくると思うんです。伊良子道牛などの名医が伏見で輩出され、腑分けに挑戦するお医者さんも出てくる。この絵が描かれたのと同じ頃の『伏見鑑』にも、伏見の医師の何人かの名前が出ており、活躍されていたことがわかっています。

神功皇后と桂女と腹帯

 三木 御香宮は、祭神が神功皇后さんで、安産の神様です。不思議なことに、伏見区内、この近辺だけでも産婦人科の先生が多くおられます。世間では、産婦人科が少なくなって、土地でお産ができないという悩みがあるということは聞いていますが、こと伏見に関しては、そうはなっていないんじゃないでしょうか。

 たぶん初めて聞かれる話かと思いますが、桂に女子さん(桂女)がおられて、その先祖が神功皇后のお産の世話をしました。その人が、神功皇后の巻いておられた腹帯を頭に巻いて(桂巻)、春になると鮎(鮎の内臓は産後の滋養によい)を京都に売りに来るのです。

 京都の街の真ん中ではお産ができなくて、必ず都から離れた土地でお産をするという風習がありました。桂もお産をする場所の一つで、その世話をする桂女が神功皇后に仕えていた。そして、たまたま頭に巻いていたのを腹帯として巻くという風習になりました。

 中山 腹帯を巻く風習は、いつの時代から?

 三木 室町時代からです。腹帯を巻くのは日本人だけで、他の民族にはない珍しい風習のようです。戌の日に巻くというのは、犬は安産だからという説がありますが、犬はもともと厄や災いを除けるために飼ったということで、お産をする女の人を守るために戌の日に巻くのだという伝えもあります。

御香宮神社

 神功皇后を主祭神とし仲哀天皇、応神天皇他六神を祀る。神功皇后の神話における伝承から、安産の神として信仰を集める。社務所内に小堀政一(遠州)が伏見奉行所内に作ったとされる庭園が移設されている。貞観4年(862年)に、境内より良い香りの水が湧き出し、清和天皇から「御香宮」の名を賜ったという。「御香水」は名水百選に選定されている。伏見城築城の際に、豊臣秀吉が城内に移し、鬼門の守護神とした。後に徳川家康によって元の位置に戻され、本殿が造営された。表門は伏見城の大手門を移築したものとされている。明治元年(1868年)の鳥羽伏見の戦いでは、伏見町内における官軍(薩摩藩)の本営となったが、戦火は免れた。十月の神幸祭は、伏見九郷の総鎮守の祭礼とされ、今も洛南随一の大祭として聞こえている。

「表門」(伏見城大手門)
「表門」(伏見城大手門)

上は「本殿」、下は汲みにくる人の絶えない「御香水」
上は「本殿」、下は汲みにくる人の絶えない「御香水」

神社は思い出をつくる場所

 三木 お宮さんは、みなさんや子どもたちの共通の思い出をこしらえ、また地域の歴史が語れるような場所にしておきたい。それが、私の預かっている神社の勤めと思っています。

 御香宮では10月初めの9日間、お祭をやります。この辺の子どもたちは、このお祭りを非常に楽しみにしてくれます。行列も出たり、屋台・露店も大手筋通りからぎっしり並ぶくらいに出て、わいわいやるわけです。9日が過ぎる頃、子どもはみな、「もっとお祭りなかったんかいな」ですが、大人にとっては、「はよ終わらへんかいな、毎日小遣いばっかりせびられて…」。こう言う人には「自分が子どもの頃はどうやったんや」といつも言うんですが。

 私たちの小さい頃は、行くところがないと、お宮さんで、木に登ったり、野球やったりしていました、お宮さんというのは一つの広場で、タテ社会でありヨコ社会であり、ガキ大将がおり、いろんな人がいて、地域を結びつけていたわけです。今は、全くそれがなくなってしまっています。

 家でパソコンをやっていたり、塾に通ったりという程度の思い出では、寂しいだろうと思うのです。お祭りは、みんな誘い合って来て、いろんなものを買う。リンゴ飴なんて家で食べてもおいしいものではないのに、お宮さんの雑踏の中で食べてこそおいしいんです。友達と一緒に輪投げ、射的などをやったということは、大きくなっても覚えているわけです。

 そういうことで、5年ほど前からは、お祭りのときに子どもたちを集めて相撲大会を始めました。

 人間は、どこかでゆっくりしたい、いつもいつも前ばかり走っているわけにいきません。ちょっといっぺんお宮さん行ってみようか、ここで小さいときに遊んだなあと思える風景があるわけです。

 岸田 お祭りのときに、金木犀のいい匂いがしてくる、という思い出が残っています。

 三木 千数百年来、この土地で営々と生活の一部分として、お正月にはお宮さんに初詣、2月には家で豆まき、3月には町内のお千度でお宮さんに来て、折もらったりお菓子もらったりしてわいわいとし、4月になったら…、というような生活の歳時記の中にお宮さんが入っていて、地蔵盆が終わったらいよいよ祭りというように、生活の中に溶け込んでいるようにしたいと思っています。

岸田 進氏
岸田 進氏

地域の歴史を語る場所

 三木 表門のところに立っていただくと、鳥羽伏見の戦いのとき、この神社にはいわゆる新政府軍が立てこもって、向かいの民家の後ろは伏見奉行所で、新撰組が立てこもっていました。あの門の前で近代化の第一歩の戦いが行われていました。土方歳三率いる新撰組は、神社の高い石垣やあの門を眺めながら、「うーん」と歯ぎしりをしていたかもしれません。この街の中の狭い道に、身動きがとれないくらいに兵隊が刀を突き合わせ、京町通りや両替町通りで交戦していたのです。

 その時代を伝えていこうじゃないかということで、石垣などを元通りに修理したり、中に入れば、小堀政方の悪政が発端になった伏見義民の碑が立っています。さらに歩いて来ると、本殿脇には酒樽が置いてある。「そうか、ここはお酒のできるところか」。本殿の脇には水が湧いていて、「水がいいからかな」、というようなことを考えていただき、またいろんな建物があり、燈籠や鳥居などが奉納されている。その奉納者の名前を見ると、例えば狛犬の台座に茶屋某、笠置屋、帯屋、塩屋など、いろんな名前が並んでいて、「そうか、これだけの町衆がおったんやな」。この中で、業態は変わっていても、わりと家は残っているというところもあるのです。

 神様は、本来的には名前はなくてもよくて、ただうちの氏神さんでよかったのです。けれども、「隣に八幡さん、隣に誰々さんがいはんのやさかい、うちとこも名前つけよか」と、最初にそのような話になっていますから、その意味を大事にしながら、みんなの氏神さんとして、「御香さん」とさん付けで呼ばれるのが一番いいのかなと思います。京都では、さん付けになると一人前といいます。お東さん、知恩院さん、祇園さん、天神さん。うちは「御香さん」で地域に親しんでもらえるようにするには、そのようなことをしていけたらいいのかなという思いでやっているわけです。

 木谷 伏見は、いろんな時代の歴史がありますよね。古い時代だけでなく、室町もあれば江戸、明治と、ずっと繋がってあるのは珍しいと思います。

 三木 そうですね。実は、2011年某局のドラマで、戦国時代の女性たちということで「江姫」をやるわけですが、江姫の娘である千姫が生まれたのは伏見ですし、江姫が秀忠に嫁いだ式があったのは伏見城です。少しだけ伏見が関係あるし、千姫は氏子になるわけです。千姫の初誕生日のお祝いとして寄進されたお神輿が、千姫神輿としてあるわけです。

 半田 御香宮の紹介もしてもらえるわけですか?

 三木 そうですね。「龍馬伝」では出ませんでしたが、新撰組はもちろん、太閤記も徳川家康も関係がありますから、そのたびにとりあげていただいています。まあ、それが伏見のおもしろいところかな、と。歴史の1ページであったわけです。

木谷恵子氏
木谷恵子氏

伏見港と宇治川と坂本龍馬と

 中山 伏見奉行所というのは、神社の南側にあったのですか?

 三木 現在の桃陵団地が建っている一角、桃陵中学の辺りもそうです。

 西国では一番大きくて、ここはキリシタン・伴天連の追放地だったのです。西国のキリシタン・伴天連は、江戸まで送らずに、全部ここに集められ、宇治川の河原で処刑して、流れに流してしまいます。そうすると、遺体が流れつく場所がわかるので、夜中に仲間が遺体を引き上げていくのです。日本人は、死んだら仏さんなので、八つ裂きにして死体をそのへんにさらすというようなことはしません。

 中山 今、坂本龍馬がブームですけど、このすぐ近くの寺田屋にいたわけですよね。

 三木 お龍さんという人がいたことも大きな要因でしょうが、伏見はいろんな人が集まる交通の要衝、すなわち情報の集積地です。情報が集まって、情報を発信する場所。城下町が解体されて宿場町になったとき、大名は国元に帰りましたが、西国大名は伏見屋敷を設けます。土佐、尾張、薩摩、長州などは藩邸を伏見に置き、情報を仕入れるわけです。坂本龍馬は情報屋、まとめ役の斡旋屋さんです。それをやるには、伏見というのは非常によかったわけです。勤王の志士たちもそれで集まってきました。

 中山 結局は、大阪からの淀川水路があったからということですね。

 三木 そうです。船中は狭い空間なので、他愛ない噂話が広がる、その中に真実があるわけです。「うちの大名の側用人の誰々は、ほんまは勤王やねんけど」「あれの嫁さんの誰々はどうや」とかいう話でね。「そうか、あれを抑えるには、こいつからいったらいいのか」、という人脈等々が把握できていく。そういう噂話を入れるために、伏見に集まってきたんでしょうね。

 木谷 今、十石船の観光船の船着場がありますよね。

 三木 あそこは一帯がそうです。あの船着場は、戦前淀川が改修工事をされて、伏見港ということにしたわけです。

 昭和の初めに、深草に16師団とか軍隊ができたり、京都は宗教都市でなくて工業都市なので、石炭や何やらどんどんと川船で揚げてくる、それの集積所になったんですね。

 岸田 今、伏見港公園のプールがあるあたりが広い港で、周りに倉庫がずらっと並んでいました。私たちの小さいときに、夏にそこで花火があった。それがまた楽しみでした。

 埋め立てして今の姿になったけど、昔は広い、池というか湖みたいになっていました。

 三木 パナマ運河と同じで、三栖閘門(みすこうもん)で水量を調節しながら出入りをしていました。

 木谷 24号線の辺も本来は疏水で、船着場みたいになっていたとききました。

 三木 そうです。私たちがいま見ている景色、あれが元の姿ではありません。昔は宇治川堤防はなかったんです。だから、しょっちゅう氾濫していました。

 木谷 あまり水害はない所と思っていましたが。

 岸田 昔は水害がありましたよ。

 三木 月桂冠旧本社の少し石段が高くなっているのは、あそこまで水がつくわけです。

 半田 昔は観月橋あたりは水がついていました。

 三木 一番大きかったのは、昭和28年に大切れしたときです。桂の方で切れるかと心配していたら、突然水が引いた。というのは、うちの方で切れたわけです。久御山の方まで浸かりました。この辺みんな手伝いに行かされたものです。高台には、鶏やら牛やらいっぱい避難してきました。

 岸田 江戸町に秀吉が造った堤防が出てきたとか。昔から、川を治水するのは大変なことだったんですね。

 三木 現在の宇治川は、秀吉が流れをあのように変えたんです。あの川は、もっと南の槇島の方から巨椋池に直接入って、淀の方に出ていっていたのです。それを、今のように大きく変えたのは秀吉です。だから、今の川は人工の川なんです。

寺田屋

寺田屋
寺田屋騒動や伏見奉行による坂本龍馬襲撃事件などで知られる船宿。鳥羽伏見の戦で焼失し、現在の建物はその後再建されたもの。おりからの龍馬ブームにより、観光客で賑わいをみせる。今でも宿泊が可能。

伏見十石舟(じっこくぶね)

伏見十石舟(じっこくぶね)
濠川の月桂冠大倉記念館裏の弁天橋から発着する遊覧船。江戸時代に伏見の酒や米などを大坂に運ぶ輸送船として始まり、明治末期まで存続。1998年、港町伏見を偲ぶ遊覧船として、再び開設。

大手筋

大手筋
伏見区市街地の中心。「伏見大手筋商店街」のアーケードは人通りが絶えない。

電気鉄道事業発祥記念碑

電気鉄道事業発祥記念碑
1895年に日本最初の電気鉄道として七条停車場―下油掛間で開業。

伏見桃山城

伏見桃山城

桃山御陵横の高台にたつ天守閣はキャッスルランド開園時に遊園地の売りとして作られた模擬天守。秀吉の伏見城がモデル。

開業時のこと、医師会のこと

 中山 ところで、岸田先生が開業されたのはいつ頃ですか?

 岸田 私は幼稚園からずっと大手筋で、子どものときはお祭りはここ、御香宮です。開業したのは昭和53年ですね。

 中山 そうしますと、半田先生が一番早い開業になりますね?

 半田 昭和41年です。

 中山 その頃、医師会も会員は少なかったでしょ。

 半田 私は昭和33年に大学を卒業して、34年に国立京都病院でインターンを終了して、国立の外科に残って36年に結婚して、伏見で初めて知ったお宮さんが安産の神様の御香宮さんです。子ども3人とも、お宮参りは御香宮さんでした。子どもが歩けるようになって、ここのお祭りに連れてきたらたいへん喜んでたのも覚えていますし、七五三のお参りもしました。

 そうこうしているうちに41年に開業しまして、その頃は会員数が、A会員126人、B会員31人と、今の半分でしょうね。まだC会員もなかったですし。開業しても、あまり知った人がなく心細くて、伏見医師会館に行くのは敷居が高くてね。あまり行きたくない雰囲気でした。開業して3年目の44年に初めての班長理事をさせていただきました。会長はもう亡くなられた浅野実先生という耳鼻科の先生で、そのときは庶務という、まあ三役と言われて、張り切ってやったことを覚えています。

 中山 その頃は、医業は厳しいもんだったですか?

 半田 厳しいというのか、一部負担もほとんどなくて、保険証さえあれば、窓口負担なしで診ておりました。

 岸田 いい時代でした。

 中山 その頃、老人は負担ゼロですよね。

 半田 最初はね。だんだん、1カ月400円という時代もありましたし、800円という時代もありましたね。そういう患者負担の少なかった時期というのは、中山先生も木谷先生もあまりご存じないでしょうね。

 木谷 私は平成元年の開業で、もう20年になりますけど、最初は老人は負担ゼロ、本人が1割だったと思います。その後負担が急激に加速度的に増えました。
伏見医師会は当時、班長理事の時代で、深草南班では入会翌年には班長になるという自然の流れで、平成2年に理事をしました。

 半田 昭和55年に副会長をさせてもらったときには、集まりが悪いので、新規開業の先生方に集まってもらい昼食会をもったことがあります。今はランチョンセミナーなどがありますが。そこで、医師会の内容を説明して、同好会への入会を勧めたり、そういうことを説明したのを覚えています。

 岸田 いろんな企画を次々やられてね、京大病院の検査室を見学に行ったこともありますね。

 中山 その頃は、建てかえる前の伏見医師会館はすでにできていたんですかね。

 半田 いやいやまだ、木造の旧高島邸(第16師団将校の家)を使っていました。450坪ぐらいの、なかなか立派な家の2階で、理事会を毎月やっていましたが、老朽化で傾いたりしていました。

 当時の理事会は10分か15分くらいで終わって、あとは懇親です。確か全部会長持ちで、ごちそうになったことを覚えてます。それが楽しみでした。

 中山 敷居が高いのはみな同じでしょうね。入ってしまえば親しくしてもらえるんですけど、勤務医のときのことを考えると、医師会館に呼ばれるとやはり緊張します。今回理事の先生も比較的若い方が多くて、世代交代の時期にきてるかなとは思います。

 半田先生の頃は、何でも診ないといけなかったのでしょうね。今でこそ専門医制でけっこう分かれていますけど。

 半田 当時はプライマリーケアというか、八百屋さんみたいに何科でも診ないといけないということはありました。私は外科出身ですけど、「小児科の半田先生ですか」なんて電話がかかってくるほど、小児科は多かったですね。開業してから小児科の勉強をさせてもらいました。往診も、特に夜中の往診が多かったですね。

 中山 そのころ、胃潰瘍の吐血が多かったんでしょうね?

 半田 吐血もありました。胃潰瘍ならすぐオペでした。今でこそ電話一本で救急車がすぐ来てくれますけど、当時は、救急体制がまだ現在のように整備されてなかったですからね。

歴史を今に残す地名

 木谷 御香宮の近くで、金の瓦が出てきたという話がありましたけど、あちこち掘ってみないといけませんね。

 岸田 府立桃山高校の新聞の名前が『金瓦』なんですよね。

 半田 金瓦が出るんやな、まだ。

 三木 金箔が付いていたばかりに不幸な瓦になってしまいました。戦前は、清水さんと本願寺さんと桃山御陵が京都の三大観光地でした。急に人が集まるようになって、お土産物が何かないかということで、金瓦は太閤さんが作ったということで、売れるわけです。今でも丸い瓦で金箔が付いているのは百万以上します。当時でも何十円としてて、みんなで掘りに行っていました。それを買いとるブローカーがいて、お土産物で全国に売られていきました。だから、九割方がなくなっただろうと、思っています。

 木谷 うちの土地の売買契約書でも、飛鳥時代以降の史跡で出てきたものは、国のものであるということが明記されています。

 三木 所有権は、持っている人と国と半々ですね。

 木谷 それと伏見は、住所に昔の名前が残っているのが、すごいなと思います。

 三木 深草なら、「越後屋敷」「加賀屋敷」とかね。

 木谷 私の所も、「内膳町」といいます。それから「伊達街道」ってありますよね。今は建物は違うでしょうが、少し2階が低くなっていて、大名行列を覗いたらいけなかったんだろうなという雰囲気を残したお家が点々と残っています。「たぶん、伊達政宗が通ったんかな、この道」、みたいな。

 三木 全国のいろんな所から来ている役所の人が、伏見に来て神主さんの話を聞いていると、歴史の中に自分も生きているという感じがして、歴史好きになったとよく言われます。「両替町」「銀座」「松平筑前」「毛利長門」とか、そんな町名が並んでいると、興味を持つんですね。

 子どもたちにもよく、えらいなと言うんです。「井伊掃部守(いいかもんのかみ)、読めるやろ、他のところ行ったら、よう読まへんで」てね。

伏見区というおもしろさ

 木谷 私は大阪出身なので、おもしろく感じるのは、京都は街中のことを「市内」と言って、この辺は「伏見」と言いますよね。京都市なのに、京都の中では「市内」とは言わないでしょ。「お住まいは?」と尋ねられ、「市内です」と答えたら、京都人には「うそつき」と思われそうです。でも、世界中で「京都の伏見」で通じるだろうと思うことはとても誇らしい気分です。

 岸田 伏見では、昔は四条に行くときは「京都行ってきます」っていう表現でしたものね。

 三木 今でもそうです、「ちょっと京都まで」てね。同じ区内なのに、淀の人がここへ来るのも「伏見に行く」と言いますよ。深草の人でも、大手筋行くのに「伏見行ってくるわ」ってね。

 半田 淀は伏見区に合併されるのが一番遅かったんでしょ。

 三木 昭和32年です。

 木谷 伏見区は、「深草」が付くところと、付かないところと、醍醐と、区が三つに分かれていますよね。

 三木 伏見区何々町というところは伏見なんです。伏見区深草何々町は、伏見でなくて深草村。御香宮門前町も区画からいうと紀伊郡堀内村なんです。伏見町というのは、京町通りから西側です。

 中山 伏見の一番栄えた所は、大手筋のこの辺ですか?

 三木 そうそう、だから「あんたの話は桃山だけや」といつも言われます。昭和6年に、伏見区に強引に合併されるわけですが、最後まで抵抗したのは深草です。陸軍があって税収が十分にあるから、今さら伏見区につかなくてもね。それを聞いた向島村も、淀の競馬場があるからと。

 木谷 京都市深草村だったのですか?

 三木 紀伊郡深草村、紀伊郡向島村です。醍醐は宇治郡醍醐村で、それを強引に伏見区に入れてしまった。だから、未だに村意識が強いのです。

 木谷 今になって、大きくなりすぎたから分区という話がありましたね。でも、お稲荷さんは「伏見稲荷」の名前で全国的に有名だから、「深草区」ではおかしいということで、深草の人は反対してね。

 三木 一時そういう話がありましたが、地形的条件がまったくだめで、どこからも線が引けないわけです。それで、分区の話も立ち消えになりました。

 中山 本日は、色々おもしろい興味あるお話を聞かせていただきましてありがとうございました。

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