シリーズ 環境問題を考える(83)

シリーズ 環境問題を考える(83)

環境教育を憂う

環境対策委員長 武田 信英

 思い切り傲慢に好きなことを書こうと思う。独断と偏見もあろうが御容赦を!

 少なくとも過半数の人間は、全地球レベルでの環境についてなぞ、どうでも良いことと考えており、この割合は貧困層・若年層程増えるに違いない。結局ヒトは、自らに災禍が降りかかって来ぬ限り、環境問題など考えるまい(その時にはすでに手遅れであろう)。

 環境破壊の多くは不可逆性の問題であり、事後・対症療法では取り返しがつかない(種の絶滅・失われたDNA=生物多様性の消失など)。

 しかし、これを未然に防止する名案などある訳はない。もはや手遅れなのかもしれないが、地道な幼少時よりの価値観の改革=正しい環境教育の実施しかないと考える。

 日本では、行き過ぎた知識重視の詰め込み教育=受験戦争の反省より、1970年代後半頃より徐々に学習指導要領が改正(改悪?)され、平成の時代になり本格的にいわゆる、ゆとり教育が実施(学習内容・授業時間の削減)され始めた。これに伴って総合的な学習の時間が導入され、環境問題はその主要課題の一つとして取り上げられている。

 環境問題は非常に身近な問題なのだが、極めて多くの分野にまたがっている。従って、それを正しく理解するためには、様々な分野の総合的な基礎学力が必要とされよう。

 ゆとり教育の総合学習で環境問題が取り上げられるのは結構なことなのだが、ゆとり教育により基礎学力の習得が不十分になった生徒に、多面的・総合的な学力が必要な環境問題の本質が理解できるだろうか?かなり疑問に思わざるを得ない。

 ゆとり教育と環境教育は、きっと相容れないものなのだろう…。

 さらに、最新の学習指導要領や中央教育審議会提言などでは、ゆとり教育の反省より、総合の時間が切り詰められるのは避けられず、その分は理数系・英語・IT教育に充てられるらしい。即ち環境教育の時間が減少し不十分になるということである。

 もっとも、小学生時代に環境教育を受けているはずの中高生の集団が、他人の迷惑を省みず平気に騒いだり、ゴミのポイ捨てをしているのはよく見られる光景だし、その環境教育をする教師の世界での醜聞(大分県教育委員会贈収賄事件)など、教えられる生徒が真面目に頑張るのがバカバカしくなるような事件もある。こんなものが全国的な醜聞でないことを祈るばかりである。

 まっとうな競争の上に合格した有能な教師による、正しい環境教育に期待する。

 せめて手遅れになる前に、全地球環境について興味を持つ程度の教育はしてもらいたい。

 地球上の生命体は、競争しつつも互いに共生関係にあり、すべてのもの(生命体・非生命体も)は等しく尊い=すべてのものに神は宿る(天上天下唯我独尊)、もしくはすべての物を愛せよ、等のような宗教的な考えを環境学と共に教えるべきでは?

 自己を律し他を思いやるという環境教育の本質は、人間性の調和的な発展を目指す、本当の意味での全人教育であり、下手な受験知識より遥かに重要なものと思うのだが…。

 今後、環境教育は更に困難なものとなろう。

【京都保険医新聞第2654・2655合併号_2008年9月1・8日_4面】

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