【特集II】地域紹介シリーズ6 /相楽 木津川と道連れに  PDF

【特集II】地域紹介シリーズ6/相楽 木津川と道連れに

 地域紹介シリーズの第6回目は「相楽」。相楽医師会の藤木新治氏(精華)・山本ゆき子氏(同)・飯田泰啓氏(木津)・柳澤衛氏(和束)・伊左治友子氏(笠置)、吉村陽協会理事(加茂)に相楽の地域医療の移り変わりと現状について語りあっていただいた。ゲストの城南郷土史研究会の中津川敬朗氏からは相楽の歴史について伺った。

相楽・木津川周辺の地図

第1部 「母なる川」木津川と相楽地方

中津川敬朗(なかつがわゆきお)氏:元山城町教育委員会教育長、城南郷土史研究会代表

中津川敬朗(なかつがわゆきお)氏
元山城町教育委員会教育長
城南郷土史研究会代表

 中津川 本日の主題は「相楽の移り変わり」です。まず地図を見ると、東の笠置山地は険しく、西の甘南備丘陵すなわち生駒山地は低い山が連なっています。相楽の大きな特徴はそれぞれの地域の真ん中を木津川が流れていることです。北隣の綴喜地方、久世地方では木津川は西端を縦に切るだけですが、相楽では各市町村の中を流れているのです。木津川は相楽地域にとって「母なる川」の役割を果してきたのです。相楽の人たちは1500年、2000年前から木津川から離れて暮らすことはできませんでした。つまりこの地の人たちのくらしと文化は、中央を流れる「大川」が「道連れ」だったのです。

 木津川は、淀川に合流し、瀬戸内海へ出、東アジアにつながります。木津川によって中国、朝鮮半島との関係が強く、そういった地域から高い文化を持った人たちが古くから相楽へ入ってきた歴史があります。山間なのに川によって開けた土地だったのです。

 一方国境を南へ越えると平城京、奈良市です。平城京の前の藤原京はこれより少し南です。その前の飛鳥はさらに南です。当時は木津川を通してたくさんの人と物が都へ運ばれ、また、木津川を通ってたくさんの人と物が出て行きました。川だけでなく道についても同じことがいえます。都から北陸へ行くには、相楽を通って木津川の東岸を宇治へ上がって行きます。山陽へ行く道は木津川の西岸を通って西へ回って行く。東海道も木津川に沿って東側へ抜けて行きます。相楽というのは都と地方をつなぐ場所に位置していました。

平城京・恭仁京時代が残したもの

 恭仁京の宮城を発掘して調べてみますと、大きさは平城宮の4分の1でした。都がおかれていたのは740年から744年のわずか5年間です。それでも宮をきちっとつくっていました。右京は今の山城町と木津町に当たります。左京が瓶原、加茂です。右京域のほぼ真ん中に行基がつくった泉橋寺があります。これは橋を護るためのものです。行基はその後、大僧正になり、大仏殿の造営に力を尽しました。

 相楽は奈良の都の入口で、都から北陸へ向かった大伴家持が万葉集に残した歌によると、今日の木津の町の泉川べりには国やお寺の木材をはじめ物資の集積所が並んでいました。都から出ていく役人たちにとっては、泉川の河原が別れの場所であったことがわかります。この時代は国分寺、国分尼寺の造営、墾田の永年私財を許すというように、後の時代に深く影響することが決定されました。

京(貴族)と南都(寺)を結ぶ

 やがて都は長岡京から京都に移ります。京が中心になることで、相楽は寂れたのかというと、そうでもありません。例えば笠置山は弥勒信仰の聖地になります。弥勒は、釈迦が入滅して56億7千万年後に現れ、みんなを救うという考えです。平安時代、末法の時代、貴族たちはお経を書いたものを筒に入れて笠置山に埋めに行きました。藤原道長、藤原定家、後鳥羽上皇らが訪れています。

 相楽は京都と奈良を結ぶ道となりました。たとえば貴族の女性は観音を信仰して長谷寺に向かいました。藤原氏の氏神は春日大社ですから藤原氏は奈良へ行きます。笠置山に行く人もいます。このように大勢の人がこの地域を通ったことがわかっています。

 平安の終わりから鎌倉時代にかけて、この地域では仏教の信仰が大きくなります。浄瑠璃寺の三重の塔は、1178(治承2)年に京都の一条大宮から持ってきたものです。その前年4月に京都で起こった大火事で河原町五条から西北が燃え、宮殿の内裏も燃えました。このとき一条大宮にあった塔は火災を免れ、浄瑠璃寺へ移されたのでした。現在、平安京の時代に建てられた塔で唯一残されたのがこの三重の塔です。火事のことは、鴨長明の『方丈記』に詳しく記されています。

 なぜ浄瑠璃寺に移されたのか。平安時代、浄瑠璃寺の土地は近衛家の領地でした。この領地は春日神社の領地になり、さらに興福寺の領地となりました。このとき興福寺には恵信というお坊さんがいました。摂政や関白をつとめた藤原忠通の子どもです。この恵信が浄瑠璃寺の整備に力を尽くし、移築されたと考えられています。また、興福寺から笠置寺に入り海住山寺で亡くなった貞慶は藤原信西の孫ですし、あとを継いだ覚真は藤原光長の子どもです。荘園領主になった奈良の寺と貴族との関係は深い結びつきがありました。相楽は、京都(貴族)と奈良(寺)との間を結ぶ地域だったといえるのです。

この地で起こった山城国一揆

 有名な山城国一揆が1485(文明17)年、南山城の久世、綴喜、相楽三郡で成立しました。小中学校の社会科の教科書には必ず出てくる出来事ですが、この記述が興福寺の古文書から発見されたのは明治の終わり頃で、一般に広まったのは戦後になってからです。応仁の乱のとき、地元の武士も東軍西軍に分かれて戦争をしていたのですが、そのさなか三郡のすべての国人が集会を開いて、自分たちの掟法を書いた紙を燃やして、神に供えた水が入った容器の中にその灰を入れ、代表の36人がそれを回し飲んで一味同心して、一揆を起こし、東西両軍を追い出したのです。このとき両軍には莫大な礼銭を払い、「去状」を受け取っています。8年後に解体しましたが、惣村という住民による自治を行いました。このときの村のしくみはその後、江戸時代の村の基盤として引き継がれています。

水運業者の活躍

 江戸時代、木津川には村々に浜があり、そこを拠点に水運業が盛んでした。木津川を通行した船には2種類あって、一つは淀川に権利を持つ淀船。20石くらいの大きな船で、500艘以上運行していたといわれています。これに対して、相楽の地元業者が権利を持つ船が100艘ほどあり、その半分は笠置浜の舟だったようです。六カ浜を上流から見ていくと、一番上が南北の笠置浜、次に瓶原、加茂、木津、吐師と続き、残りの一つが巨椋池の一口という浜です。

 淀舟はどこの浜でも荷の積み下ろしができますが、六カ浜の船は往路しか荷が積めないし、淀川に入ることもできませんでした。復路はカラで帰ってくるしかなかったのです。そのため淀船と六カ浜船とは絶えず争論を起こしていたようです。淀川に入れるようになったのは、江戸時代の終わりごろでした。

 水運業者としては相当苦労したと思われますが、木津川を下る荷はさまざまなものがありました。薪、柴、蜜柑、桃、梨、柿、芋、牛蒡、綿、炭、お茶などが運ばれていたようです。幕末からはお茶が増え、神戸へ運び、アメリカなどへ輸出するようになりました。京都、奈良に加えて大阪との関係が深まりました。

 相楽の人たちは生業の激しい競争をしてきた一方、それは深い祈りの心もあったのです。また、お互いのつきあいの中ではやさしい穏やかな心もあったと思います。新しいものは取り入れ、古くからの伝統も尊重するという長い体験を続けてきた相楽の特徴は今もまだ残っているのではないかと思います。

◇  ◇

 吉村(司会) 相楽は奈良時代までは奈良の北の出入り口、平安、鎌倉時代にかけては信仰の場であると同時に興福寺の荘園になっていたということでした。私は加茂の出身で、先祖は奈良の奉行所で働いていたそうです。つまりこの地域は江戸時代も奈良に近い位置にいたように思うのですが、それが近代以降、京都府に入っていくことになった要因は何だったのでしょうか。

 中津川 江戸時代、この地域は藤堂藩、柳生藩の領地、禁裏御領とさまざまでしたが、村々は領主の違いを越えてことにあたり団結してきました。その関係で相楽は明治以降、山城国相楽郡という枠組みでは奈良にはもっていけなかったのだろうと思います。

 吉村 伊左治先生は笠置に移ってこられたわけですが、他の地域との歴史的な違いを感じることがありますか。

 伊左治 後醍醐天皇が笠置山で幕府側に捕らえられたきっかけをつくったといわれている地域があります。そこの住民は今でも悪いことをしてしまったという思いを持っておられるというのです。また、他地区からもそのように見られている、といった雰囲気を当初感じたことがありました。

 また、私の医院は笠置町浜にあります。なぜこんな山の中なのに「浜」なのか、かつて木津川を利用して物資の輸送を行っており、そのための浜があったところなのだと教えてもらい納得しました。生まれ育った地ではないので、古くからの住民とは思いが違うかもしれません。

 中津川 笠置山は、最初は弥勒信仰や山岳信仰の聖地でした。ところがここに後醍醐天皇が立てこもったことによって、戦乱に巻き込まれてしまったのです。『太平記』に村人が鎌倉幕府軍に登り口を教えたと記されてあります。そのことがけしからんと言われ出したのは、江戸時代後期になって尊皇思想が大きな影響力を持つようになって以降のことです。江戸時代から明治にかけての歴史の流れの中でつくられてきた言いがかりの出来事を大変残念に思っています。

伊左治友子氏

伊左治 友子 氏

第2部 医療からみた移り変わり

 吉村 精華町の最近の移り変わりは激しいものがあると思います。藤木先生、山本先生は精華町で開業されていますが、どのように地域の変化を見ておられますか。

 藤木 私の祖父が開業したのが1919(大正8)年で、当時開業医は8人から10人くらいでした。父が開業した1950(昭和25)年には相楽医師会会員は30人くらいです。私は平成に入ってからですが、60人くらいでした。現在は140人になります。それだけ急激に人口も増えてきているわけです。医療はこのままでいいかどうかは別として、非常に近代化されてきていると思います。

 山本 私の生まれは鳥取で、大阪で育ちました。京都で勤務医をしていて、2000年に、これからは精華町がいいと聞き、開業することにしました。まず、急行電車が止まる祝園駅周辺を探したのですが、駅周辺には当時何もなくて、大規模開発中で砂ぼこりがすごかったことを覚えています。駅から少し離れた精華大通り沿いはとてもきれいな町並みでしたので、それに魅かれて決めました。

 当時の人口は2万6千人だったのですが、2005年には30%増加して3万4千人と全国一の増加率だそうです。人口が急増したことで、新しい層、若い患者さんが多く、そのため昔からの地域のつながりが弱く、問題に感じることもあります。

 吉村 飯田先生は代々相楽の中心部、木津でお仕事をされています。医療の移り変わりをどう感じられていますか。

 飯田 『相楽医師会六十年誌』編集のとき、過去の相楽の医療のことを調べました。1920(大正9)年の『相楽郡誌』に、相楽医師会の前身である相楽医事研究会が1882(明治15)年に発足し、1886(明治19)年に相楽郡開業医組合ができたと書かれています。幕末から明治にかけてはコレラが流行して相楽でも死者がでています。医師の組織化はコレラなどの伝染病の流行に対処することが直接的な契機でした。この頃の予防接種といえば種痘です。今やがんの予防接種という時代です。大きな時代の変化を感じます。

山本ゆき子氏

山本 ゆき子 氏

藤木新治氏

藤木 新治 氏

飯田泰啓氏

飯田 泰啓 氏

東西の「格差」

 吉村 西部の木津川市、精華町は人口増加率が府内で最も高く、逆に東部の笠置町、和束町、南山城村は人口減少率が最も高く、この10年で大幅に減りましたね。

 ※(10年の対05年比人口増減率)木津川市9・6%、精華町4・1%、和束町△10・3%、南山城村△11・2%、笠置町△13・3%

 柳澤 和束町では年間100人くらい減少しています。しかしより大きな問題は、過疎よりも少子化だと思います。子どもが産まれる世代の人口がいなくなっているということです。

 和束町は鉄道と国道がない過疎地域です。通院には介護タクシーを使えばいいのですが、経済としてそれは成り立ちません。社会福祉協議会の年配のボランティアの方が車を運転して医療機関までの送り迎えをやっているという現状です。

 飯田 相楽の医療問題は東西でかなり違います。人口増減の差もありますが、人口構造でも高齢化率が西部は10%台なのに対し、東部は30%台です。

 ※(11年3月の高齢化率)精華町16.7%、木津川市18.3%、和束町31.6%、南山城村35.1%、笠置町37.4%

 柳澤 実際の東部の高齢化率はもっと高いと思います。通いで農業をする方が増えていますし、住民票だけ残して、実際の住まいは木津川市であるという方がけっこうおられます。

 田舎だから隣近所お互い助け合って暮らしていると思われがちですが、和束町では隣に誰も住んでいないのが実情です。地域から人がいなくなっていますから、そういう状況ではないと思います。

 伊左治 そうですね。空き家が増えているし、隣も老老世帯、その隣は一人暮らし、さらにその隣も老老世帯です。自分のことで精いっぱいなので、他人の面倒まで見ることができなくなっています。笠置はまだまとまって住んでいますが、和束や南山城では住民が点在して隣近所がないという所もあります。

 柳澤 東部3町村は一つになればいいという意見もありますが、現状ではなれません。広すぎるし、合併しても便利にならないからです。結局支所を置かないといけませんので、職員が減るわけでもなく、行政的メリットもないと思います。

柳澤衛氏

柳澤 衛 氏

まちとしての一体性

 吉村 合併といいますと、個性豊かな木津.・城・加茂の3町が5年前(2007年3月)に合併して木津川市ができましたが、いまだぎくしゃくしています。中津川先生のお話にもありましたが、歴史的に見て、この地域自体がいろんな藩の領土だったり、荘園の領主が寺だったり貴族だったり、地区ごとに隣は敵だといった感覚があったのかもしれません。山城国一揆のときはよくもまとまったものだと思いますが、そういったことが現在の市町村合併に伴う問題として出てきているのではないかと感じています。

 山城町は上狛町、棚倉村、高麗村が、1956(昭和31)年の昭和の合併でできたわけですが、町としてまとまるまでにどれくらいかかったのでしょうか。

 中津川 一つの町意識は長い時間をかけて深まってきました。一つの要因として山城中学校の存在があったと思います。中学校を通してまず子どもたちの中から交流が進んでいきました。この中学校は合併の9年前に設立され、当時は上狛中学校といっていました。この地域が山城茶の集散地であり、山城ぶどう、山城たけのこの生産も行っていたことを背景に、福寿園の先代さんが提案して校名の改称が決まったといわれています。そして、その校名から町名にとられたという経緯があります。

 吉村 山城町における中学校のような役割を、木津川市においては公立山城病院が担って、ここを中心に市としてのまとまりをつくっていけるのではないかと思います。

深刻な救急医療問題

 吉村 相楽の目は木津川の流れに沿って京都に向かっているというご指摘がありました。例えば救急医療についてはいかがでしょうか。やはり京都に向かっているでしょうか。それとも奈良、大阪でしょうか。

 飯田 相楽の中でも北部と南部とでは違うと思います。北部は京都に向かっているでしょうし、私のところはどちらかというと奈良に向かっています。また、東部の南山城村では三重県に向かっていると思います。

 藤木 精華町はいろんな方面へ行きます。京都であったり奈良であったり、大阪へ行かれる人も多いようです。

 飯田 問題なのは東部の救急医療です。隣接する三重県は救急搬送を受け入れてくれません。奈良県もそうです。京都府に要望は出しているのですが、府の回答は他県については何も言えない、ということのようです。

 藤木 相楽全体では現在往診医は30人近くいますが、南山城村、笠置町はそれぞれ1人しかいません。何かあった場合、南山城村なら木津よりも三重県に行く方が近いわけです。しかし三重県は救急搬送を受けつけてくれないため搬送に時間がかかってしまうのが現状です。何とか県境を越えての受け付けについて交渉はしているのですが、垣根が高いです。それで京都府はドクターヘリの導入という話を出してくるのですが、これでは解決にはなりません。

 柳澤 ヘリに乗せるには当然救急車でヘリポートへ運ばねばなりませんから、そこまで行くだけで時間がかかり、日常で使うのは無理です。過疎地の救急医療をどうするか、たいへんな問題です。

相楽の医療問題の今後

 吉村 相楽地方の今後の医療についてお聞きしたいと思います。

 藤木 国は在院日数を減らす一方で、在宅療養のネットワークづくりを推進しています。そのため、重症にもかかわらず在宅に戻る方もおられ、われわれも協力体制をとって対応していますが、なかなか24時間対応には困難があります。

 国の方針で、できるだけ24時間態勢をとるよう求められて在宅療養支援診療所をつくっているわけですが、それに応じるとその診療所名がインターネットで公表されます。それを見た患者さんの中には、その診療所はいつでも当然診療に応じるべきだとし、診療を要求するのは患者の当然の権利のように考えてしまう人が出てきました。そうなると、たちまち医師は疲弊し、腰が引けてくるということになります。これまで地域包括支援センターを中心にネットワークを構築してきたのに、医師の方が在宅を拒否せざるを得ない状況も生まれてきています。

 吉村 私は10年前に30年ぶりに加茂町に戻って開業しました。日本の医療制度からすると当然のことかもしれませんが、有床診療所が一つしかないということに驚かされました。それまでいた地域だと、有床診療所が何カ所かあり、短期間の入院ができました。病院と在宅の間をつなぐような診療所がなくなったのはなぜでしょう。

 飯田 国の制度として成り立たない。経営が成り立たないようにしてしまったのです。

 吉村 先ほどもいわれましたが、訪問診療、訪問介護をする際でも、何軒かまとめて行かなければ、できないようなへき地の患者さんもおられるわけです。だから有床診療所という形でなくても、地域で気軽に運営できて、われわれもさほど苦労せずに診療できるシステムをつくることはできないものでしょうか。

 柳澤 府北部ではまだ有床診療所はあります。北部と南部との違いはそこだと思います。笠置や和束は田舎だといいますが、車で20〜30分走れば病院に行けるわけです。北部ではその距離に病院はないし、開業医もいない地域があるのです。そう考えると現状では相楽東部にそういった施設をつくるのは難しいのではないでしょうか。

 伊左治 急変しても対応できないような施設をつくるよりは、初めから30分かけて公立山城病院に入院する方がいいように思います。だから、2、3日程度の入院ですむような患者さんも含めて例えば山城病院が受け入れてくれるよう、私たちがバックアップしていく方が、新しい施設をつくるよりはいいかもしれません。

 飯田 それは医師会としてもバックアップしていかなければいけないと思います。

 吉村 この地域が、京都、奈良、大阪、三重に囲まれてどういった位置にあるのか、同じ相楽といっても東と西とではまったく違う状況であり、今後の医療を考える上で、地域の病院をバックアップしていく重要性など課題がはっきりしてきたように思います。本日はありがとうございました。

ページの先頭へ