【報告】第11回文化講座「人間が『生きる』とはどういうことか?  PDF

【報告】第11回文化講座「人間が『生きる』とはどういうことか?

文化講座を開催/“人間が「生きる」とは”

 協会は3月10日、第11回文化講座「人間が『生きる』とはどういうことか?〜ゼロから『哲学』と『科学』について考える」を開催、18人が参加した。講師は代々木ゼミナール公民科講師の畠山創氏。当日の参加記を掲載する。

参加記 3・11と哲学

 今回は、今までの哲学講座とはかなり毛色のちがったお題と講師でしたが、どういう内容であっても「考える」契機となるだろうと考えて参加させていただきました。

 まず、出だしから既成概念が破壊されました。「哲学するのに忙しくて」と言われる。哲学は静かに思考をめぐらすものだと思っていました。「倫理とは哲学が人を対象とした時のものである」と言われる。倫理とは人としてどうあるべきかを考える学問だと思っておりました。「あなたの考え方はベンサムの功利主義の考えで…」と断ぜられ、カント、デカルト、パスカル、ラッセルと講義が進むにつれて納得しました。これは倫理学の授業なのだと。しかしそうは言っても、パスカルは「パンセ」の中で、「デカルトには我慢がならない。神をないがしろにしている」と述べているとおり、教会からは離れていてもカトリック的呪縛から離れられなかった人で、とても先見性があったとは思えません。「ラッセル・アインシュタイン宣言」は戦争や原発を倫理的に問うもので、政治に道徳をつきつけて意味があるのでしょうか。哲学は知識を持つことではなく、いかに有るかを考える学問であると私は考えます。

 単に大災害であっただけでなく、現代文明に大きな疑問符を投げかけた3・11によって、デカルトに始まる西洋的な二元論に立脚した現代科学の限界が白日のもとにさらされた今、多神教的に自然の恵みを幸いとし、自然とともに生きる日本的な死生観こそが今後の地球を救う哲学となりうるのではないでしょうか。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」といいますが、歴史と経験を統合して考えることが、今、課された問いに答える方法でしょうし、哲学もまた平時にはあり得ない長足の進歩をとげていることでしょう。

 まさに1年後の3・11のこの日に、思索の機会を与えてくださった保険医協会の皆様に感謝すると同時に、世界の人々に幸あれと願わずにはいられません。
(下京西部・山下 琢)

第11回文化講座「人間が『生きる』とはどういうことか?〜ゼロから『哲学』と『科学』について考える」の模様

文化講座のもよう

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