「過酷事故」とは何か/特別寄稿 弁護士 莇 立明  PDF

「過酷事故」とは何か

特別寄稿 弁護士 莇 立明

 過酷事故(シビアアクシデント)という言葉は、これまで飛行機事故や鉄道事故で使われた。しかし、我々法律家の世界でも汎用されたことがなかった。それが福島第一原発事故以来、マスコミで使われだし、原発関係用語として常用化している。

 過酷事故とは、「原子炉の設計上、あらかじめ想定されていた範囲を超える大事故である。安全に制御して事故を収束させることができず、炉心や核燃料が重大な損傷を受けるに至る事故―格納容器の破損、炉心溶融などを指す」とある。(新語時事用語辞典)

 しかし「原子炉の設計上、あらかじめ想定されていた範囲を超える大事故」とは、いかにも抽象的でわかり難い。

 昨年6月、日本政府は「原子力安全に関するIAEA閣僚会議における日本政府の報告書」を公表した。それによると日本政府は1992年から原発の冷却系、格納容器などの「安全装置」についての人為的対応(アクシデント・マネジメント)の対策の取り組みを始めた。しかし、それは安全規制の法律上の要求事項となっておらず、事業者から自主的な取り組みの報告を求めるだけであったとされている。我が国の安全委員会は、過酷事故は「設計基準事象を大幅に超える事象であり、想定された手段では制御できない状態」であるとして、電力会社との検討席上の協議では「これまで地元に安全であると宣伝していたことが覆る」との意見に従い、結局、規制対象から外すこととしたとのことである。どうやら過酷事故対策は政府や電力会社には、「お手上げ」であったらしい。見たところ「過酷事故」そのものの認識と理解について意見がまちまちで調整がつかず、自縄自縛に陥ったのではないか。その結果、無責任にも投げ出したとしか思えないのである。かくて、「過酷事故」は、国の安全規制の対象外とされた(館野淳・元中央大学教授)。

 私は、この際、政府、事業者など関係者は、原発における「過酷事故」の真の意味、国民の生命、安全に対する恐るべき危険性の本質、正しい科学的知見の意味するところを、広く分かりやすく国民に開示すべき義務があると思う。

 「過酷事故」は、原子炉開発の歴史の中では「絶対起きない事故」とされ、「落下した隕石に当たって死亡する確率よりも低い」とされてきた。しかし、スリーマイル島やチェルノブイリの事故、そして今回、福島事故を経験して、「絶対に」起きない事故との定義はもはやどこにも通用しない。「絶対に」起きないとの保障がどこにもないことが専門知識の有無に関係なしに、これらの事故を通じて誰の目にもはっきりとしたからである。

 北海道の泊原発1〜3号機の原発訴訟では「絶対的安全」ということが有り得るのかと問い詰められた電力会社は、「絶対的」ではなくて「相対的安全」だと言い換えた。すなわち「安全とはいかなる危険をも生じない(絶対)との意味ではない」「社会通念上、その危険性が容認できる水準のものであればよい」というのである。しかし、安全基準が、「社会通念」という通俗用語で曖昧にされてはたまらない。如何に確率が低くとも巨大にして複雑かつ深刻な過酷事故が、安全対策を幾重にも講じたとしても絶対発生する可能性がないと断ずることは誰にもできない。

 高速増殖炉「もんじゅ」の裁判で、03年1月27日の名古屋高裁金沢支部は、原子炉設置が違法だとする住民側勝訴の判決を言い渡した。この判決理由では、原子炉冷却材ナトリウムの漏出事故や炉心の蒸気発生器破損は、原子炉の「潜在的危険性の重大性」を示すもので、格納容器内に閉じ込めている放射性物質が周辺環境に放出される事態発生の可能性は現実的に憂慮されるとしている。正に「潜在的危険性」は「現実的危険性」に転化する可能性が認められたのである。しかし、この判決は、残念ながら最高裁で取消された。「司法」の場においても「原発神話」は維持された。

 今、滋賀県民による若狭の原発群の設置違法を請求する訴訟が始まっている。福島第一原発事故の原因もその場でも次第に暴かれ、原発事故の具体的危険性が露わにされつつある。敦賀原発では、その老朽化と原子炉直下の活断層の存在が保安院で指摘され調査も行われた。大飯3、4号機の再稼働も認めないとする世論が盛り上がっており、事態は急速度で転回しつつある。(2012・5・24)

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