「満州国」からの引揚 満洲生まれのつぶやき(12)
木村 敏之(宇治久世)
集団移動の始まり(新吉林出発)
満洲の昿野のイメージ(著者描く)
N院長達は酷寒の時期、暖房のこともあり撫順へ移るよりほかなく、ひと足先に1946(昭和21)年1月3日第2次列車で病人と共に出発することになった。しかし小生の父には終戦前日に生れた赤ん坊がおり、産婦人科医長にも妊娠中の奥さんがあり、他に歯科医長さんの家族の3家族は事情で1カ月半後の第3次列車にて2月14日ごろに撫順に着いたようだ。
移動する貨車からぼおっと眺めた満洲大陸の姿、その夕日の大きさ、赤さだけは今でも脳裏に残っている。N院長の下には10人の看護婦と家族5人の世帯ができ、他方、他の従業員は5班に分け、それぞれ班長を決めて移動を始めることになった。しかし、まもなく起こる鉄道警護隊長の無理難題や泥棒の警護隊の出没には、先のソ連兵に助けられることになるのである。その列車の状況はというと、一両の貨物車に90人も乗っており、更にその最後尾には車掌車がつながり、そこにソ連兵が乗ってくれていたらしい。
移動中の列車の中では皆が同じ境遇であり、お互い助け合い、仲よく話し合い食物も分け合った。一行はそうこうするうちに新京駅に到着し、N院長は思い出深い病院である廃屋新京病院を訪ねたくなり、1月8日の朝こっそりと知人の消息を知るため訪ねられた。病院の中は空き家同然廊下には歩く人もなく、既に病院閉鎖されていた。当時新京駅には3人の駅長(ソ連・支那・日本)が働いており、日本人の駅長は汽車を動かすために必要でおられたのだが、その人からこっそりと週2回ソ連軍の列車が出るのでそれに連結できるかもしれないとの情報を得た。
1月8日の真夜中に突然列車が動き、間もなく四平、奉天を過ぎ無事に中継地の撫順に到着した。たったの500kmを6日間かけて移動してきたのであるが、これには幸運もあったわけである。一行は600人にもなり全員空き家の寮の中へ収容され、八路軍による所持品検査が行われた。この撫順には避難民としての日本人があちこちからやって来ており、終戦直後には日本人で大きく膨れ上がったという。招かれざる客であったことに変わりはなかったし、旧日本人学校内での惨めな集団生活をした人の中には成人は発疹チフス、子どもははしかの合併症で多くの人が亡くなり、校庭に掘られた防空壕の中は死体でいっぱいになったと書かれている。この悲惨な状況を避難人の一人が歌に詠んでおられるが、それを読むと胸打たれる作品が多い。残念ながら他の作品集に掲載されているものでここに載せることができないことをお詫びします。
苦しめられた毛ジラミ(左)とアタマジラミ(右)(著者描く)
【京都保険医新聞第2654・2655合併号_2008年9月1・8日_4面】