続々漂萍の記 老いて後(28)谷口 謙(北丹)

続々漂萍の記 老いて後(28)谷口 謙(北丹)

東大医学部

 老齢期で、とうとう愛着の強かった仕事から離れ、老妻と2人で閉居している。吾が生涯を顧みると、太平洋戦争下であったとはいえ、65年前になる松江高校時代がもっとも懐かしい。前にもくり返し書いたが、宮津中学3年生2学期から、昭和19年10月に大学に入り、21年9月6日父が死亡するまでを自分の青春とする。この追憶を書き続けているわけだが、自分の記憶のみを頼り、現在まで覚えているのだから、これは絶対に正しいと思っていたのだが、思い込みの間違いもあるかもしれない。

 年賀状を整理していて、いつも付記を書いてくれる、川崎市に住んでいる西尾準二に電話を入れてみた。電話はなかなか取ってくれない。あきらめようかと思ったら本人が出てくれた。西尾は鳥取二中、四修でぼくと同年齢になる。京大工学部を出て、自力で会社を設立したとのこと。彼の家は鳥取でも有名な資産家と聞いていたので、今回の電話で尋ねたが、大地主であり、戦後の農地解放ですってんてんになった。大きな邸宅のみ残った云々。彼は東京方面の松高会、特に22、23期の卒業生の連絡事務世話方を一切引き受けているらしい。もっとも理科生に限ってであるが。ぼくは22期生だが、東京地区の生存者は40人、最近の会合の出席者は7人だった由。医師は3人いたが、ごく最近死亡した由。彼は理乙のトップだったが東大医学部に入り、東京の某私立医大に転じ教授になった人らしい。

 理科甲類3組の仲間に大野明という男がいたが、年齢はぼくより3歳年上だったと思う。彼は有名人で、大田中学2年生の時、野球で甲子園に出場しレギュラーの捕手をつとめた。もっとも当時は野球は亡国病と呼ばれ、あまり活躍のチャンスはなかったようだが。彼は3年の時召集されて鳥取師団に入隊した。そこで幹部候補生試験でトップになった。これは当時の配属将校が興奮して話しているのを聞いている。彼は軍隊で大学志望の学部の指名を求められ、ああこれも夢かと、東京大学医学部と書いた。敗戦。彼は志望通り東大医学部に入った。その後姓を変え、86歳だと思うが、いまなお血気盛んだとのことだった。

 また畠山重隆なる大阪出身で一浪の人がいた。彼は読書家で倉田百三『愛と認識との出発』『出家とその弟子』など愛読していて、四修のぼくもいろいろ教わったが、1年生から2年生に上がる時留年し23期生になった。今でも健在で鹿児島市在住。今もって酒豪だと、西尾の電話で聞いた。

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