続々漂萍の記 老いて後(26)/谷口 謙(北丹)

続々漂萍の記 老いて後(26)/谷口 謙(北丹)

淡交

 猪股佐登留 いのまたさとる という同期生で松江高校文科乙類の人があった。寮には入っていなかったので、恐らく松江市内か近郊の人で自宅通学をしていたのだろうと思う。2年生になって早々のことだった。同級生の中から筋骨薄弱なる者、恐らく身長、体重、胸囲を測定して決めたのだろうが、十数名の者を寮に寝泊りをさせ、他の一般寮生よりカロリーの高いもの、つまり御馳走を食べさせ、同時に決められた訓練をするのである。訓練といっても軍事教官が号令をかけたりするのではない。体育の教師が走らせたりするものでもない。訓練の内容は全く覚えていない。ただ2年生十数名の者が寮に入り、大部屋に宿泊し一同とは別の席に座り、一般寮生より御馳走を摂取するのである。寮生はほとんどが1年生である。やはり選ばれて寮に泊まることは2年生としてはコンプレックスがあったのだろう。夜になると肩を組んでストームと称し、〈富士 ふじ の白雪 しらゆき のーえ〉と歌い、円陣を組んで大部屋の中をくるくる廻るのである。大勢の中でほんの一 ひと にぎりの者が高カロリーの食事をする。いい食事ができるのは嬉しいが、下級生の中にあって、身体が貧弱だとのレッテルを貼られ、より美食を取るのは恥ずかしかったのである。期間は1週間位だったと思う。誰も勉強道具は持っていなかった。わいわい騒いで一夜を過ごした。この時ぼくは猪股に会ったのである。彼はストームから離れ、横に立ってにやにやしていた。ストームは元下士官で下階に当直に来ていた職員にひどく叱られて終わった。

 そのあと猪股がぼくに近づき、

「おい、谷口」

と言った。初めての相手、いや彼は文2の秀才でトップだとの話は聞いていた。小柄な彼を時々校内で見かけ、尊敬の念は持っていた。今迄気づかなかったが、彼は小さな机と5、6冊の書籍を持ってきていた。小机の前に正座をし、右側にその本を置き、1冊は独和辞典だったことを明確に覚えている。

 「本を横に置いて、きちんと正座をしないといけないんだ。これはぼくの癖なんだ」

彼は言い訳めいて話し、それからぼくの方を向いてきた。何をしゃべったかは忘れた。ただ彼の正座姿が印象に残るのみである。彼のような人柄を哲学の徒と言うのだろうか。ぼくは自分の哲学を持たない。風に流される雑草のような人間だが、ぼくは猪股の真摯な人柄に打たれた。

 当時の松高では指導教授といった制度があった。教授の1人を生徒の方から指名をして、保証人のような形を取るのである。理科系の者はほとんど理科系の教授に依頼するのだが、ぼくは何だか意地を張って池永教授にお願いをした。先生には週に1回講義を受けたが、授業の内容については何も覚えていない。法文系の話だったろうと思う。指導教授に挨拶に行かなければと父母が話し合っていたことがあったから、1年生の時、母が松江に来たのは池永教授に挨拶に行き、粗品を届けたのではないかと思う。指導教授には学期末ごとに呼ばれ成績を見せられた。最初の図学試験で0点を取った時には呼び出されて注意を受けた。一度だけ教授の私宅に行ったことがある。こちらはまだ子どものようなものだったから、

「先生、遊びに来ました」

と、知人から教えられて居宅に行った。とりとめない話のあと教授は、

「君は理科だけど、文乙の猪股君、知ってる?」

ぼくは寮で会った時と間なくだったから、

「偉い人ですね。よくおできになるそうで」

教授は笑いつつ、実は自分が猪股の指導教授なんだと言い、言葉を続けた。

「頑固、変人で有名な人なんだが、彼のお父さん、やはり父親だった」

 何のことかわからないので、ぼくは黙っていたが、教授は1人で話を続けた。彼の父親は僧職で、この地方では有名な人らしい。寺の位が高いのかもしれないが、頑固で変人として聞こえている。でもやはり平凡な親馬鹿である。そのお父さんがお見えになり、息子のことをお頼みになった。とうとう私の力ではかなえられないことだった。と教授は話をくくった。

 今から想像すると、工場への学徒動員のことではなかったろうか。教授としては、1人の学生だけを、いかに父親が地方の有力者であっても特別の配慮はできない。こんな話をされた。

 大学に入ってから数回猪股に会った。彼は文学部の学生だった。恐らく哲学科だったと思う。もちろん彼が入学できたのだから戦後のことであろう。彼から連絡があり、脳外科の荒木教授の講義が聞きたいとのことだった。ぼくは時間と教室の場所を教えた。外科の階段教室だった。猪股はやって来た。ぼくに手を上げ挨拶をした。ぼくは隣の席があいていたので、「ここに座る?」と言ったが、彼は「いや、後 うしろ の方で」と言って後方の席に行こうとした。

「荒木さんは生徒に指名して質問なんかしないよ」

それでも彼は後方に行き、また10分位して再びぼくの所に来て、

「いや、谷口、やっぱりぼくは帰るよ」

と言い教室から出て行った。荒木教授の臨床講義が始まった。その後ぼくは彼に会っていない。大学を卒業後、彼はずっと教室に残っているらしかった。

 ぼくが郷里に帰り、開業してから何年位たったか記憶がはっきりしない。彼は滋賀大に教授として赴任したとの噂を聞いた。誰からかどうしても思い出せない。それから数年後に彼の訃報の記事を見た。新聞の京都版の記事である。

 また新聞記事の話になるが、池永教授と同姓同名の人が衆議院の話で書かれたことがあった。池永教授の人柄とはそぐわない。恐らく他人だったと思うことにしている。

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