続々漂萍の記 老いて後(22)/谷口 謙(北丹)

続々漂萍の記 老いて後(22)/谷口 謙(北丹)

階段教室

 医学部入学は理甲からは1人だったが、理乙の人も含めると7、8人くらいはあったと思う。引っ込み癖で臆病で、ぼくは同じ松高出身の同級生に自分から話しかける機会がなかった。最初の解剖の講義の時、階段式の教室で左右の一番前の席は1人だけの構成だった。講義もよく聞こえるし、話をしようと思っても隣席がなかった。10月1日に入学し1カ月位たった時だった。同じ松高出身の赤井が初めて声をかけてくれた。

「いつもしょんぼりしているのでかわいそうになった。ここはお前の指定席だな」

と言って、一人席の机の上をどんどんたたいた。赤井はたしか大阪の四條畷中学から5卒で入ってきたと思うが、理乙の1組か2組かは忘れた。とにかく背が高く立派な体格で、並べば必ず最右翼、それに名前が赤井のアだから名簿も必ずトップだった。それは自分でも言っていた。

「わしはいつもトップなんだ」

よくわからないが、彼の家系は名門だったらしい。ただ彼は、ぼくのような偏屈者に初めて声をかけてくれたのだった。

 赤井は自分は短歌が好きなんだと言って、ぼくに作品を見せてくれた。「これは平俗だ」ぼくは一言ではねつけたが、ああ、彼を怒らせてしまったかな、と後悔をした。言いすぎだったな。ところがつい数日後、作品を再び手渡された。今度は手のこんだ技巧をこらした短歌だったが、ぼくは黙って目をそらした。

 前にも書いたが、ぼくは大阪城であった陸軍軍医志望候補生を決める試験を受けた。松高出身者からは彼と松永なる男とぼくの3人だったが、ぼくと松永は落ち、赤井1人が合格した。赤井は上着の襟にメダルのようなものをつけた。赤井はあっけらかん、陽性の男で何も言わなかったが、ぼくのひがみが強く、なんだか赤井との間に溝ができた。これはぼくの責任である。

 卒業後何年かたってクラス会があった。京都の祇園だったと思う。ぼくはめったに出席していなかったのに、たまたまのことである。赤井に会った。姓が変わっていた。お母さんの方の後を継いだらしかった。彼の言によると、三重医大の小児科に勤め助教授になったが、教授に、お前は学者には向いていない、とけなされ、大阪の北野病院に医長で行かされたと言った。そして現在は開業をしている由。赤井は立派な紳士だった。医家の名門と聞いていたから、この新聞の記事を一門の人が読むかもしれない。こんな思いが強く、ただ恥入るばかりである。

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