続々漂萍の記 老いて後(13)/谷口 謙(北丹)

続々漂萍の記 老いて後(13)/谷口 謙(北丹)

別名

 理科甲類3組で、医学部行きの者が集められてクラスの編成替えのあったことは前に記した。吉野寛が入学時からか、それとも後になってからの同級生なのか、はっきり覚えていない。勉強のできた男だから、もし入学した時だったら、ぼくの記憶にも残っていた筈である。彼はがっちりした体格で中肉中背。どんな労働にも耐えるような身体であった。

 彼は当時の朝鮮出身者であることは知っていた。日本での郷里はどこか、出身中学、本名も知らず、四修か五卒か浪人経験者かも未知だった。彼は無口で、坊ちゃん育ちの田舎者には目もくれないといった追憶がある。とにかく彼は秀才だった。文武両道と言おうか、勉強も語学、数学何れも卓越していた。今の年齢になって恥ずかしいが、ぼくは彼にいかなる点でもかなわないと思っていた。いや事実だったのだ。

 一度、学校全体の閲兵分列のあったことがある。軍事教練の査閲の時だったかもしれぬ。その時の中隊長なのだから2年生の後半の時期のことになる。彼は2年生全体の長として、唯一人先頭に立ち、台の上に立っている校長に対して「かしら、右」の号令をかけた。まさしく彼は松高生のリーダーの一人だったのだ。

 それからほんの数日後のことである。彼は欠席をした。珍らしいことだが、誰だって風邪ぐらいはひくだろう。ところが同級生の間に驚くべき情報が流れた。彼は朝鮮の独立運動に加わり、松江署に検挙され、数日後東京に護送されたとのことだった。青天の霹靂とはこのようなことを言うのだろう。当時のぼくは小林多喜二の虐殺のことなどは知らない。が、吉野はどのような取り調べを受けただろうか。ぼくは恐ろしかった。ほんの数日前、彼は松高代表の一人として閲兵分列の長をしていたではないか。これはおそらく配属将校の推薦だろう。その彼が突然連行された。噂の真偽は不詳である。松江警察の人が簡単に口を割ることはあるまいし、また級友の中に警察幹部の息子がいるわけではない。ぼくは彼の下宿がどこなのか知らず、もちろん行ったことはないのだが、彼が早朝逮捕されたことは、下宿の主人は知っているだろう。そこからでも話は洩れる。

 学校へはいつ頃伝えられただろう。学校の対応は、何も聞いていないのでわからない。ただ温厚な化学の教授が、

「配属将校なんて単純だね。あんな者を中隊長にするなんて」

と、数人の生徒を前にして発言したのを覚えている。

 その後の吉野のことは何も知らない。戦後、北鮮か南鮮に帰って活動していただろうか。本名を知らないからわかるわけがない。ただ大学に入ってから、未だ戦中だったが、松高出身の同級生から「吉野は転向した」との言葉を一度だけ聞いた。

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